『ハウ ドゥーユーノウ?』 How do you know?
「神は、いることもいないことも証明できない」
どこかで聞いたことのある命題ではないでしょうか。
よく考えてみると、これはその通りだなあと感じます。
なぜなら、目に見えないのですから。
ただし、仮に、目の前に現れたとしても、
今度は、それが妄想ではなく、実際に存在したのかどうか、
疑わしい。
仮に、妄想ではなくて、実際に確かにそこに「存在」があったとしても、
それが神だと言える根拠は何なのか。
神のふりをした悪魔や、人間のトリックによる可能性もあるのではないか。
結局は、その時の人間の解釈や、信念が、
その人の現実を作り上げていくのでしょう。
「〇〇であって欲しい」
「△△であるに違いない」
「▢▢なわけがない」
しかし、その根拠は、人間には知りえることはできず、
いちいち検証することも手間であるため、推測で、私たちは物事を判断し、
行動に移していることが多いでしょう。
プロポーズをする際には、
目の前の相手との将来は見えていません。
相手のことが好き、という感情も、
交感神経が優位に立ち、ドーパミン、アドレナリンなどの神経伝達物質の分泌に
よって生み出させる反応でしかありません。
しかし、この相手となら幸せな家庭を築くことができると信じ、
愛していると信じるからこそ、告白といった行動を起こすのでしょう。
「信じること」は、人間が持つ機能の中でも、
最も影響力があり、最も脆弱であり、同時に、最も美しいものであると思います。
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皆さんこんにちは、コトワドです。
私はクリスチャンですが、
クリスチャンではない方の視点からも、
日々考察し、聖書を読むようにしています。
前回のブログで書いた、
「赤子のように神を信じる」からは矛盾してしまう点もあると思うですが、
批判的に聖書を読み、神について考えることで、
より神についても理解が深まることが多いためです。
信者の視点でスムーズに聖書を読むと、
どうしても「ぶつかる」という経験が抜けてしまいます。
この「ぶつかる」という過程が大切でして、これにより、
自分の中で「堪(こら)える」という状態が生まれ、堪えて、調べて、考えて、
「納得した」結果、前回よりも高い状態で、神を賛美する気持ちが生まれることがあります。
同様の理由で、
リチャードドーキンスによる「神は妄想である」や、
「進化論こそが正しい」といった旨の作品も、
聖書と同じレベルで、興味深く読むことができます。
それらの作品に触れて、自分の信仰生活が「揺れる」こともありますが、
(もちろん人間ですので)、揺れた後に、その振れ幅を生かして、
より太い信仰を作れることは、恵みだと感じています。
重い病気を患ってしまった人や、事故で子どもを亡くしてしまった人、
「沈黙(サイレンス)」という映画を見て、信仰のテンションを落としてしまった人が、
葛藤時期を経て、前回よりも強い確信で、
神を信じるようになるという経験もあるのではないでしょうか。
もちろん、それらの壁を経験することによって、
棄教 (信じなくなること) することもあると思います。
それも自然なことでしょう。
私たちは、確固とした「知識」という土台に両足で立っているのではなく、
「信念」という、もろくも揺らぎやすい土台の上に、片足を立てているのですから。
ですから、個人的な意見になるのですが、
クリスチャンの方も、盲目的に聖書を信じる、のではなく、
聖書に書かれていることが真実であるとある程度納得できるから信じる、
という姿勢の方が、信仰の土台が固まって良いと思います。
ただし、最終的には、信仰は、本人の努力によってではなく、
神の恵みによって与えられるものであることも、付け加えさせていただきます…。
(矛盾するようですみません…)
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さて、批判的な態度をもう少し続けさせてください。
恐らく、クリスチャンでない方からすると、
クリスチャンの人は、不思議だらけだと思います。
一番率直で、ざっくりとした質問は、
「どうして信じられるのか」 "How do you know?"
だと思います。
・世の初めには、神が世界を創造された。
・2,000年前に、イエスが十字架で処刑され、三日後に死から蘇った。
・世の終わり (終末) にはイエスがやってきて、信じるものと、信じていないものとを裁かれる。
確かに、今のクリスチャンの人は、それを実際に見ていないですよね。
「聖書に書いてあるから」と回答をしたところで、
「ではなぜ聖書が信じられるのか」といったように、
問いが形を変えるだけでしょう。
私の答えはこうです。
「知らないよ。でも信じられそうだから信じる」
プロポーズでもそうです。
相手のことは100%分からない。
でも、この相手となら、幸せになれそうだと信じる。
冒頭でも、「信じる」ことには、脆弱的な面があることを指摘しました。
美しい面があることもお伝えしました。
前回のブログにもつながりますが、むしろ、知っていないからこそ、
信じることには価値が生まれるのでしょう。
実際には、プロポーズした結果、離婚することもあるでしょう。
統計データは、それを物語っています。
ただ、今の私は、私がイエスと神について知っていること、
聖書が語っていること、自分自身の経験から、
「イエスさんってすごく感じが良くて、
自分のことをとても愛してくれているから、結婚したい!
普段のデートでもとても優しいの!
この前、車に轢かれそうになった時も、身代わりで自分のことを守ってくれたの!
(ちょっと頭が良すぎてたまに何を言っているか分からないことがあるけど…)」
みたいな心境で、信じると、回答することができます。
少し整理しますね。
「どうして信じられるのか」には、
三つの答え方があると思います。
1. 「根拠はないけど信じる 」
これは、姿勢的には美しいとは思いますが、少し盲目的で、
本人にとっても危険かなと思います。
「沈黙」や「神は幻想である」を読む、もしくは、
教会などの環境が変わることによって、
信じることをやめてしまうこともあるでしょう。
ただし、聖書でイエスは、自分が復活したことを疑っていた弟子のトマスに対して、
「根拠があるから」信じる、という姿勢について、少し批判的な見方をしていますので、神様的には、このオプションが一番好ましいのかもしれません。
「イエスは彼に言われた、『あなたはわたしを見たので信じたのか。見ないで信ずる者は、さいわいである』」 (ヨハネの書20章29節)
2. 「投げやりに信じる」
1と似ていますが、どちらかというと、「別に間違っていたところで失うものはないし」と、「とりあえず」的に信じる方もいるのかなと思います。少しドライな感じですね。
悪くはないとは思いますが、信仰(結婚)生活を、楽しむことは、できないと思います…。
3. 「信じられるから信じる」
反対意見や、疑問に対して、積極的な態度を示し、分からないこともあるけども、トータルで信じられる、と判断して信じる方もいると思います。
神の目からすると、好ましくないのかもしれませんが、私はこのほどほどに懐疑的な姿勢、というのが一番健康的なのではないかなと思います。
最後に、「どうして信じられるのか」という問いをかける方に対しては、
えてして、すでに凝り固まった考え方をしている方が多いように感じますので、
ぜひ、両側の立場に立って物事を見ていただきたいです。
Aの立場が快適だから、常識だから、ではなく、
Bの立場の人はこういった考え方をしているんだ、と。
最終的に、どちらの立場に落ち着くかは別として、
今信じているものが、より確信へと近づいていくのではないかなと
思います。
今日は、ここで終わりにします。
ありがとうございました。