自分のための言葉
自分の中で、軸となる言葉がある。
その軸は、自分の姿勢となり、行動を起こす際の動機でもある。
それは例えば、優れた良書の中の言葉であったり、感動的な映画の中の一節であったり、友人やメンターから言われた一言であったり、様々な文脈で見つかるでしょう。
私の言葉はどこで見つかったか。
聖書の中に存在する『第一ペトロの手紙』という本 (手紙) の中の3章15節
心の中でキリストを主とあがめなさい。あなたの抱いている希望について説明を要求する人には、いつでも弁明できるように備えていなさい。それも、穏やかに、敬意をもって、正しい良心で、弁明するようにしなさい。
なぜこの言葉が特別なのか。
一つには、クリスチャンの中でも、(非常に失礼ながら)この言葉を実践できる人はそう多くないと感じるから。これは、自分自身がまだクリスチャンではなかった時も、クリスチャンになった後もそう感じることが多く、自分自身は、求められる問いには、明確な答えを用意したいと強く思っていた。
二つには、自分自身のミッションとして、多くのノンクリスチャンの人たち、つまり日本の人口の99%の人たちに対して、神の言葉を伝えることが、自分のミッションであると感じるからだ。なぜこの点を自分のミッションと感じるようになったかについては、別の機会でまた書き込んでみたい。
自分自身2025年1月のこの時点で、クリスチャンになってから約10年弱が経とうとしているが、理解できるようになったこともあれば、まだまだ府に落ちていないこともたくさんある。
きっとこの聖句は、自分自身に挑戦するための聖句でもある。周りの人にもまして、自分自身が自分に説明を要求してくるのだ。
- なぜ地獄(的な場所)が聖書の中に登場するのか。
- なぜ悲しみが存在するのか。
- なぜ神はもっと自分自身を明らかにされなかったのか。
繰り返しになるが、私Kotowadoは全ての問いに対して答えを持っているわけではない。常に弁明を行う準備はできていない。
だからこそ、この聖句は常に自分の中に掲げ、難しい問いに常に向き合い、自分自身で納得のいく答えを見つけ、周りの人たちにそれをシェアしていきたいのだ。
このブログはそのために存在する。Kotowado はそのために存在していたい。
そしてこの記事は、ただの自己表明をするためだけの記事である。
クリスチャンではない人からすると、時間を無駄にしてしまったと感じるかもしれない。ごめんなさい。
次の記事から、少しでも皆さんの疑問に共鳴できるような、有益な記事を書きたいと思います。
周りを見渡すと、あまりにも不完全な世の中で、完全な神の存在を疑うことがあると思います。そこのギャップを、自分自身にできる渾身の弁論で説明していきたい。
ただしそれは自分自身の力で行うのではなく、神様、あなたから与えられる力を通して、言葉を通して、周りに伝えていくことができますように。
キリスト教と宗教-スキャンダラスな愛
世の中には4千以上の宗教があり、その数に応じた、それぞれの神も存在するらしい。
様々な生き方や、哲学、宗教感が存在する中で、自分たちはどの価値観を自身に当てはめて生きていくべきなのか。
別に、自分をある特定の思想グループに当てはめる必要はない。極端な例ではあるが、その思想グループがカルトだったり、危険な考え方を持っている場合は、マイナスの結果をもたらすためだ。ただし、何かのフレームワークを自分自身の中に持っておくことで、逆境の中で生きる糧になったり、人生の中で喜びを見つける一助になるとは考える。人間は、自分自身のみに依存して生きることができるほど、強くはない。
自分を守るためや、更に成長するため、人生において、自分の軸を持っておくことは、大切だと考える。
・スポーツに関する問いであれば、スラムダンクや、大谷翔平が、
・受験に対する問いであれば、ドラゴン桜が、
・お金に関する問いであれば、両学長が
教えてくれるでしょう。
では、すべての問いの土台になりうる、自分自身の存在を問う領域であれば?
・なぜ自分は今ここに存在しているのか、
・自分の人生の目的とは、、
普段から幸せな方であれば、日常生活の中で、こうした問いを自分自身に投げかけることは、あまりないでしょう。でもいつかは、辛いとき、壁にぶつかったとき、自分自身に問いかけることはあるかと思います。
そのような時、①自分自身で内省して答えを見つけ出すパターンと、②本やメディア、SNSなど、自分の外に答えを見つけ出すパターンがあると思います。
②の自分の外に答えを見つけ出す場合、冒頭で述べたように、そこにはいろいろな考え方や、思想、解釈があります。
いわゆる宗教というカテゴリでとらえた場合には、「ユダヤ教」「キリスト教」「イスラム教」「仏教」等等、、、
(「エホバの証人」や、「統一教会」、「オウム真理教」などは、教えの中でもグループの中でも明らかに不義が蔓延しており、客観的に解釈しても真理からは遠いと判断されるため、いわゆるカルト宗教と見なし、ここでの宗教の定義からは外させていただきます)
あとは「無神論」。
無神論そのものは、神や超自然的な存在を信じない信条を持たず、人間の理性や科学に基づく倫理や思想を重視する一方で、それが独自の死生観に繋がり、多くのグループやコミュニティを形成している点において、一つの思想体系であると私は個人的には解釈しています。
「『神を信じない』ことを信じている」少しややこしいですね。
少し話がそれますが、もし無神論の立場に立つのであれば、私たちを創造した神が存在しない前提のため、私たちがここに存在するのはただの偶然であり、それゆえ、冒頭であげたような存在意義や、人生の目的と言うのは、存在しないことになるのでしょう。ただし、もし無理やりひねりだすとすれば、「今の人生を精一杯楽しもう」や、「目の前のいる人たちを大切にして過ごそう」といった、それ自体の考え方は大変すばらしいのですが、本当の意味で本質的ではない方向性に向かう可能性があるかと思います。
...では、話を戻しまして、「宗教」の枠組みでとらえた場合はどうでしょうか。
それぞれの思想や宗教は内容が異なっているため、論理的に考えた場合、「各宗教がそれぞれ(独立して)正しい」ということはないでしょう。真理は一つだから真理であり、2つ以上の背反する真理が存在することは、定義上矛盾していますね。キリスト教の神と、イスラム教の神、ユダヤ教の神が、同時に一つの神を崇拝していることは、定義上ありえないと思います。
では、どのようにして、自分自身の軸を見つけていけば良いのか。。。
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難しく考える必要はないかもしれません。簡単ではないかもしれませんが。
皆さんはどのようにして、人生のパートナーを見つけますか。
・まずは何かのきっかけで相手のことを知り、
・何かのきっかけで相手のことが好きになり、
・そして相手のことをもっと知りたいと思うようになり、
・一緒にでかけたり、時間を過ごしたりする中で、相手に対する理解をより深めていき、より好きになっていく。。。
その「好き」と「理解」を繰り返すサイクルの中で、
皆さんはどのタイミングで、プロポーズをしますか。
「好き」が「愛」に代わり、相手に対する理解が100%になってから、結婚したいと思うでしょうか。
いえ、人間同士、相手のことを100%理解することは、不可能でしょう。どのカップルもそうだと思いますが、結婚してから相手について初めて理解したことも、必ずたくさんあるはずです。
(人間同士でも相手を100%理解することは難しいのですから、自分の存在をはるかに凌駕した存在である神を理解することは、定義上ほぼ不可能でしょう)
ですが、それでも結婚したいと思うのは、相手の100%を理解しているわけではないですが、自分が理解を積み上げてきた相手に対して自信を持ち、分からないこともあるけれど残りの人生を共に過ごしたいと思うに値するだけの知識と経験が、積み重なったタイミングではないでしょうか。
100%理解していない中でも相手を信頼し、自分のパートナーとしてとらえていく姿勢は、まさに「信仰心」に共通する要素だと思います。
(100%理解していたら、それは信仰ではなく、知識になるのですから)
〇教であれ、△教であれ、▢教であれ、それを盲目的に信じ、自分の知識や信念がまったく追いついていない中で、信じることは、健全ではありません。むしろ、非常に危険な姿勢であるため、おすすめもできません。
ただし、その教義に触れ、時間をかけて理解に努め、100%理解できないまでも、
自分の中で知っていることに根拠があり、信じるに値すると確信が持てたとき、
それが信仰のスタート地点であると感じます。
後は、信仰生活の中で、さまざまな揺らぎが発生することもあると思います。
(結婚生活でも3人に1人が離婚する時代だといわれております)
問われているのは、それが根拠のある信仰だったのかどうかだと思います。
世の中には様々な宗教や教えが存在する中で、自分の中で最も心に触れる相手、信頼できる相手を見つけ出すことが、恋人においても、神においても大切であると思います。
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最後に、私が信じているキリスト教について、
ある意味で、非常にスキャンダラスで唯一無二の考え方であると捉えます。
それはなぜか。
通常の多くの宗教であれば、「規律」や「ルール」「義務」などが発生し、それらをクリアすることによって、「ゴール(多くの場合は天国)」に到達することができると考えられているでしょう。
それは例えば、何かのロードマップのように、現在のスタート地点とゴール地点があって、その道中には多くの課題が存在し、それらをクリアし、前に進んでいくことによって、最終ゴールに到達するといったイメージがあるかと思います。宗教によっては、最終テストのようなものがあり、それに合格することで救いに到達するといった考え方もあるかもしれません。
ただし、キリスト教はそうではありません。
キリスト教では、戒律ではなく、神との「関係性(Relationship)」が重視され、イエスキリストを信じた時点で、救いは既に手に入っていると考えます。つまり、神の愛や、救いは、すでに目の前にあるものとして、みなされています。
『しかし、私たちがまだ罪人であった時、神はキリストを遣わしてくださいました。そのキリストが私たちのために死なれたことにより、神は私たちに大きな愛を示してくださったのです』(ローマ人への手紙 5:8 リビングバイブル (JCB))
ただし、もちろん、日曜日の礼拝や、日々の祈りなどの活動は存在します。ただし、これらは救いのための条件ではありません。あくまでもクリスチャンは、神様から「最初に」頂いた愛に感謝し、その結果として、神との対話や、奉仕活動などを行うのです。マザーテレサの奉仕活動の背景には、神への感謝が先にあったと、私はそう理解しています。
その意味において、キリスト教は規則や儀式が中心ではなく、神との深い愛の関係を築くことが信仰の中心にあるため、「関係性(Relationship)」と表現されることがあります。クリスチャンの中では、「自分たちは宗教を行っている」という意識を持っていない人もたくさんいると思います。
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世の中には、いろんな宗教の本や自己啓発本が存在します。
ビジネス書でさえ、生き方を説くものが多く存在します。
私は、それらの考え方を否定するつもりはありません。
(その教えが自分自身や周りの人を不幸に導かない限りは)
無神論者でさえ、それが根拠に基づいているのであれば、立派な信仰心、もしくは考え方であると感じます。
ただし、私が肯定できないのは、盲目的に一つの考え方を信じる姿勢と、そもそもの真実を探求しようとしない姿勢です。
必然にせよ、偶然にせよ、何らかの形でいまここに生があることは、疑いようがない事実だと思います。それでは、その生がどこから来たのか、ある特定の神なのか、特定されえない神なのか、それとも、ただの化学反応によって生まれたに過ぎないのか、自分なりの解釈を持つことにより、逆境の中で生きる力になるかと思います。
私は、無神論の環境で育ってきましたが、さまざまな可能性を検討した結果、今はキリスト教という特定の神が、一番納得感のあるストーリーとして理解しています。
みなさんも、ぜひ探求した先に答えを見つけることができますように。
コトワド
健全な自尊心とは Healthy Self-esteem
「早起きに成功して、スキルアップのための読書をする」
「定期的に筋トレを行い、自分の健康管理や見た目に気を遣う」
「仕事で良い結果を出して上司から良い評価を得る、昇進につながる」
どれも、自分にとって、非常に気持ちが良い。自分のことが誇らしくなり、肯定的な気分を持つことができる。
もちろん、ポジティブな日ばかりが続くことはなく、日によっては落ちこんだり、自分に対して否定的な思いを感じることもたくさんある。
しかし、自分の願いとしては、少しでも多くの肯定感を感じられるように、日々を努力して過ごしていくことではないか。それが人間の根源的な欲求である。
そのようなモチベーションを持って日々を送り、毎日を走るように生きている中でふと気が付く。自分自身に対する肯定感が、他者からの評価や、自分自身の行動によって測られていることに。
同時に、気づく。自分が他者を見るときも、同様の尺度を用いていることに。
「Aさんはすごい。会議中にしっかりと発言して、周りを説得してプロジェクトを成功に向かわせている」
「Bさんは少し。。。いつも遅刻するし、体型も少しだらしないし、ちょっと距離を置きたい」
...
自分は自分のことを優しい人間だと思って生きてきた。
そして、自分自身にもっと自信を持ちたくて、大学生のある時、様々な努力をしてここまで来ることができた。
自分自身の努力や成果に裏付けされた、ある程度の自分に対する自信も持つことができた。
しかし、その自信は日々の生活の中で、達成/不達成の基準によって上昇と下降を繰り返す、不安定な自信だ。
同時に、自分は冷酷な人間になった。表面的には笑顔で相手に接し、友好的にふるまいを行うが、相手が「すごく」ないと感じた際には、心の中では勝手に相手を下に見て、Bad のラベルを張っているのだから。
この生き方は間違っているのか。
そうはいうものの、それが当たり前ではないか。多くの人は自分自身や相手を見る際に、自然と相手の行動や、達成したことを見て評価するのは当たり前ではないのか。それで社会が回っているのではないか。
...
しかし、ある価値観が真実であるということと、自分がその価値観に従うかどうかは、別の軸である。
例えば、世界は基本的には資本主義であり、お金を多く持っている人が成功者であるとみなされる。それが基本的な価値観である。
しかし、その価値観から外れ、あえてたくさんのお金を持たずに、家族との時間を過ごしたり、または、副業の代わりに、ボランティア活動を積極的に行う人たちの存在もある。メインストリームを歩く人達には、意味が分からない行為だろう。
では、自分はどうだろう。。。
人生とは、選択である。
どの価値観を選択して生きていきたいのか。世の中が当たり前だとみなしている判断基準に即していくのか、哲学者や神学者のように、独自の判断基準に従い、価値観を気づいていくのか。。。
...
いろいろと試行錯誤した末、私は、人間が独自に作り上げてきた価値観ではなく、聖書と、聖書の神が作り上げた価値観に従うことにした。
「聖書や聖書の神の自体、人間が作ったものではないか」
あなたはそう言うでしょうか。それもあなたの価値観でしょう。そしてそれは、日々の感覚や、科学的な証拠に裏打ちされた、立派な価値観であると思います。
実際に、日本人の99%は、神や超越した存在はいるかもしれないと思いつつも、聖書自体はただの物語であると感じているでしょう。ギリシャ神話や、古事記と同様、人間が作成した宗教であり、真理にはなり得ないと。。。
自分自身も以前はそのように感じていたので、よくわかります。
・「宗教」て何だか怖い。頭が悪いか、心が弱っている人がすがるように信じるものでしょう。
・必要心によって、人間が作り上げたものでしょう。
・仮にそれが正しいとしても、その正しさによって多くの戦争や紛争が起きているのだから、そんなものを自分は信じたくない。。。
その気持ちはすごく尊重できる。
ただし、ここでも2つの軸を用意する必要がある。自分が見ている「現実」と「真実」は別の尺度である。
キリスト教によってもたらされたネガティブな面はたくさんある。しかし、だからといってそれが真実ではないとは、誰も言うことができない。
日常生活の感覚や推論から、真実を導き出すことは難しい。特にそれが、すべての「始まり」に関するものであればあるほど。
これは、信仰の問題である。
「神を信じること」これはもちろん信仰だ。
「神を信じないこと」も、同様に、神がいないと信じる点において、信仰であると思う。
なぜ、自分は日本人のメインストリームに反した聖書の神の存在を選択するのか、この点は、次回のブログにて記述したい。
...
話を戻すと、自分は、神を信じることにより、それまで持っていた物差しを手放すことにした。
そして、自分が今持とうとしている物差しは、「すべての人間は神によって創造され、それ故に存在それ自体が尊いものである」というものである。
自分や相手が行った行動ではない、人間の存在自体が、神に愛されて創造され、それ故に自分自身も積極的に愛していきたい存在である、ということ。
もちろん、だからと言って行動自体が無意味であるわけではない。
実際に、自分は、自分自身を高めるための努力は今後も行っていきたい。しかし、それは、自分自身が気持ちよくなるための努力ではなく、あくまでの神にもらった恵みを、精一杯生かし、最終的には神の栄光を示すための努力である。
もし人から褒められることがあれば自分はこう言いたい。
「ありがとう、でも、神のおかげだよ」
...
違和感を感じるでしょうか。
でも、個人的なレベルでは、真実だと思う。
自分はもともと、自分自身に誇れるものは本当に何もなかった。
容姿は普通、勉強やスポーツが特別にできるわけではなく、友人とのコミュニケーションも別に優れおらず、すべてが月並みな存在であった。
しかし、大学生の時、留学先にて神の存在に知ることができ、もちろん全てが信じれたわけではなく、納得感よりも疑問の方が多かったが、自分はその価値観を「実験的」に当てはめてみることにした。10年くらい経った今、その実験は今も続いているが、神の存在は上昇と下降を繰り返しつつも、少しづつ身近な存在になっている。
そして客観的に変わったと言えることは、自分自身と、周りの環境が良い方向に変化したことだ。
・自分は優しくなれた。
・周りの人とのコミュニケーションが改善した。
・やりたい仕事に就くことができた。
あなたは言うかもしれない。
「これらはクリスチャンになったから達成できたことなのか。他の要因があるのではないか」
もちろんそうかもしれない。ただし言えることは、クリスチャンになる前の自分と、なった後の自分を比較した際に、なった後の自分の方が好きな存在であるということ。
だから、自分は自分自身や他者を見る際に、自分自身や世の中の基準ではなく、神の基準を持っていたい。
そしてその基準とは、「すべての存在(隣人)が愛すべき存在である」ということだ。「目の前の人を愛すること」は、神を愛することに加えて、聖書の中の一番大切な個所である。
(そしてクリスチャンが一番忘れがちな部分でもある(笑))
だから、自分は、神が自分にもたらした恩義を忘れたくない。
神の子であるイエスは自分のために一度死に、よみがえったこと※。
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※注意書
蘇りとは、私たちが「科学的」だとか「常識」だとか言っていることを超越した行為である。もともとの存在が超越した設定なので、超越したことが起こっても、別に不思議ではないと感じていただけますでしょうか。
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そのよみがえりに自分自身を重ね、過去の自分は脱ぎ捨て、今日も一日、神の存在を意識して生きていきたい。
自分や宇宙や、創造や、破壊や、法則を超越した存在が自分を愛してくれていること、
その温かみを自分自身への肯定感に変えて。
Kotowadoは、
・毎朝、早起きをして努力をしている優れた存在ではない、
・筋トレを定期的に行い、自己管理ができている努力家ではない
・仕事のパフォーマンスが優れ、上司からも信頼される人間ではない
ただの、一人の卑しい人間であり、卑しくも、神の愛と恵みによってここまで来ることができた。そういう存在なのである。
さあ、目の前の人を愛そう。
落ちないりんご Apple in the Air
木から離れたりんごは、地面に向かって落ちる。これは重力の法則だ。
では、その落ちてきたりんごを途中でキャッチしてみたらどうだろう。
当然、りんごは地面に到達することはない。
これは、重力の法則を侵害していることになるだろうか。
答えはノー。
ただし、もしこのりんごを掴む手が、透明であったり、
もしくは、りんごの木が柵か何かで囲まれていて、りんごの落ちる瞬間と、
りんごが地面に落ちなかったことだけを見ると、
多くの人にとってはびっくりする結果となるだろう。
「途中で一体何が起こっているのだ」
「りんごが地面に落ちないのはおかしい!」
私は、神の奇跡について考えるときに、このような考え方をする。
奇跡とは、神が自ら創造した自然法則に介入した瞬間の出来事である。
別に自然法則に矛盾しているのではなく、ただたんに、神が創ったその法則 (ここでは重力) に、神自身が何かのきっかけで「よっこいしょ」と、手を伸ばしている (介入) に過ぎないと。
・モーセが海を二つに割るのも、
・エジプトで、全地が闇に覆われるのも、
・イエスが嵐を叱ってそれを沈めたのも、
・イエスが三日後に、死から蘇ったのも、
もともと、海、闇 (=光)、嵐と、それらを伴う環境と法則を創ったのは神であり、
それを「いじること」は、いわば神にとってできて当たり前のことであると感じる。
大人であれば*、お化け屋敷に入って宙に浮かぶ火の玉を見たところで、自然法則を無視していると考える人はいないだろう。後ろに「仕掛け人」がいるのが明白であり、お化け屋敷自体が「作られたもの」であることが明白なためだ。
(*ただし、子供にとっては、仕掛け人や、火の玉をぶら下げている透明なロープなどの存在を把握しきれていないため、火の玉を見た際に理解を超えたものとして、恐怖心を感じるのではないだろか)
この世界はどうだろう。聖書では、神が7日間で全てを創造されたとある。言い換えれば、『地球屋敷』を創造された。その中に存在する火も、重力も、水も、私たちが目に見えている物/見えていないもの全ての素材を創造された。
その視点に立った際には、むしろ神が重力や火を自由に操れないことの方が、違和感を感じるのではないだろうか。「え、自分で作ったんじゃないの?」と。
神を前提とする人にとっては、奇跡と聞いても、「まあそうだよね。全然あるある。」となりえるのではないだろうか。
逆に、自然法則を作った神の立場に立たない際には、このような現象は自然法則に矛盾したものであり、人知を超えたものであり、トリックや錯覚であると認知 (帰属) してしまうのであろう。
このような認識を持った時、問うべき問題は、『奇跡は存在するかどうか』ではなく、『神は存在するかどうか』ではないだろうか。
「確かに、もし、神が自然法則を創造したのであれば、その法則自体に介入することは十分可能である」と。
ノアの箱舟の時代のように、雨が連続で何十日間も降り続けても、りんごが途中で落下するのをやめて、どこかに逆に飛んで行っても、4匹しかなかった魚が分裂して50匹になったとしても。別に驚くべきことではないのだと。。。
――――――――
皆さんこんにちは、NYで駐在のサラリーマンをしているコトワドです。
もともとは神を疑う存在で、今でも常にクリティカルシンキングを持って神を見つめています。
今回のブログでは、「神の創造と、全能性」を前提とした際には、奇跡それ自体は、もはや障壁ではないとお話させていただきました。今後も、神を見つめる中で感じた、様々なトピックについて取り上げていくことができればと思います。
このブログの目的の一つは、最後の問いであげた「もし」を探求することであり、今後も、私自身が学びつつも、皆さんに発信していくことができればと思います。
最後に、
なんだかんだ言いまして、りんごが空を飛んで自分に向かってきたら驚くとは思いますが、同時に「やっぱりね(フフフ)」と思えるような心の準備は、常にしておきたいなと感じる今日この頃です。
最後まで読んでいただいてありがとうございました。
前に、前に、前に、、、 Always moving forward
人は言う。
「限界は自分で設定しているだけだ」と。
「信念を持って挑戦し続ければ成功する」と。
そしてそれは真実だろう。
人は、恐らく何にでもなれるし、いつからでも挑戦をすることは可能だと思う。
自分の中で二つの声がする。
「君は、どこに行きたいの?」
そして、
「神様は、なんて言っているの?」
私はKotobaWord.
社会人サラリーマン。20代後半。
仕事はそこそこ充実していて、やりがいも感じている。
このまま仕事に没頭し、収入や地位を高めて行きたい希望はある。
その一方で、私はクリスチャン。
追求するのは、この「世」に属するものではなく、「天」に属するもの。
私の理想は、神が私に望んでいるものを望み、神の中で満ち足りた生活を送ること。
そのはざまで生きる。
そして、生きている私は、弱い人間だ。
神の中で生きることを願うと言いつつも、他人の目を気にし、
与えられた新しい役職に喜び、人から認めてもらうために仕事を人一倍頑張り、
上司や周りから尊敬の念を与えられることを願っている。
そして、より高い地位、より高い給料に吸い寄せられようとしているのだろう。
努力やハードワーク、そしてそれに伴う出世や高い給料それ自体は悪いものではないだろう。
自分の心がどこを向いているかが大切なのか。
人からの称賛を集めるための出世なのか、それとも、自分がともし火になり、人々を照らすため (マタイ5章15-16章) の出世なのかによって、その意味合いは180度異なる。
お金稼ぎはどうだろう。
インターネットで検索をしていると、「ユダヤ人のお金に関する考え方」という面白い引用を見つけることができた。
世の中には、色々な人がいる。お金儲けの出来る人はドンドンお金を儲ければいい。お金儲けをした人は、お金を儲ける才能のない人に与えればいい。人にお金を恵むときは、全員に配った方がいい。もらった人が恵んでもらったという惨めな気持ちにならないで済むからだ。しかし、どうしても一人の人にお金を恵むときは、むしろその人にお金を貸す形をとった方がいい。貸し借りは対等だから、借りた方が惨めにならないで済む。そのかわり、取り立ててはいけない。返せるときに返してもらうようにせよ。
ハッとさせられた。
聖書では、神から与えられた良いものを「賜物」と表現しているが、
ビジネスでは、「スキル」や「能力」ということができるだろうか。
神からのAという賜物は、持っている人もいれば、持っていない人もいる。
それを活用することは、決して神の意図に反することではなく、むしろ準ずることであるということ。
Aという賜物を持っている人は、同じ賜物を持っていない人を助け、逆にBという賜物を持っている人に助けてもらえば良い。
自分にとって何か得意なこと、好きなことがあるとすれば、それは伸ばしていこう。
仕事で成長したり、出世したりするチャンスがあれば、積極的につかんで行こう。
それを与えてくれた、もしくは自分が手に入る土壌を与えてくれた神に感謝しつつ。
それぞれが賜物を受けているのですから、神のさまざまな恵みの良い管理者として、その賜物を用いて、互いに仕え合いなさい。(1ペテロ4:10)
私たちは、与えられた恵みに従って、異なった賜物を持っているので、もしそれが預言であれば、その信仰に応じて預言しなさい。奉仕であれば奉仕し、教える人であれば教えなさい。勧めをする人であれば勧め、分け与える人は惜しまずに分け与え、指導する人は熱心に指導し、慈善を行なう人は喜んでそれをしなさい。(ローマ12:6-8)
神様、あなたからの賜物に感謝します。
宇宙も、太陽も、地球も、この世のすべてを創造したのがあなたであるのならば、
当然、私が身に着けている服や、このパソコン、自分の能力、細胞でさえ、あなたがデザインし、私のために用意してくれたものなのでしょう。
あなたの前に、へりくだります。
そして、あなたのために、与えられた賜物を活かしきった人生を送ります。
最後の時に、「良い僕だ」と言っていただけるように (マタイ 25章23節)。
対立 Conflict
「私は、人に取り入ろうとしているのか、それとも、神に取り入ろうとしているのか。もし、何とかして人に気に入られようとしているのであれば、私は、キリストの僕ではありません (ガラテヤ書 1章10節)
「私が来たのは、地上に平和をもたらすためではない。剣をもたらすために来たのだ。私は、敵対させるために来たからである。 (マタイによる福音書10章34節)
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美味しいものを食べる。
ああ幸せ。
きれいで大きな家に住む。
とっても幸せ。
好きな友達に囲まれる。大きな大会で優勝する。仕事で上司から認められる。
心が満たされる。
しかし、そこに神がいないとすれば?
・・・
表面的な満足感の下に潜む不安。
あるいはもしかすると、その不安には気づかないかもしれない。
気づきたくはないかもしれない。
逆のパターンはどうだろう。
料理は美味しくない、家は狭くて汚れている。
友達は少なく、人からもなかなか認めてもらえない。
それでも、神を意識し、神を感じ、神とともにいるという感覚。
ここには、希望があると。
――――――――
一体、何の話をしているのか。
不安とか、希望とか、自分をどきっとさせるようなことばかり言って、
信者たちは、そうでない人たちを煽ることしか考えていないのか。
自分を不安にさせるのは、神ではなく、信者の妄想ではないか。
いいえ。
どちらかというと、今回のブログは、自分自身に向けて書いている。
ただし、不安や、希望といった感情は、現実のものだ。
信者でも、信者ではなくても感じる。
それが、普段の生活に根差しているのか、神に根差しているのか、
そこが大きな違いだ。
(いや、たとえ信者でなくても、「生」や「死」といったテーマを考えた際に感じる
漠然とした不安は、誰もが経験したことがあるでしょう。)
私たちは、目の前の生活ではなく、
目の前の生活の裏にいる存在に、目を向けている。
しかし、いくら「目の現実がすべてではない」と思ったところで、
どうしても目の前の美味しいものや、きれいな建物や、人間関係だって大切で、
それらを全く無視することは無い。
むしろ、信者であっても、
ということは非常に難しい。
だからこそ、私にとっての信仰生活は、行ったり来たりだ。
希望を感じるときもあり、
不安を感じるときもあり、
それらに向かい合いたいときもあり、
それらに目をつぶりたくなることもあり、、、
信じたらそこがゴールではなく、
むしろ、信じてからの道のりが、日々の決断が、
本当のスタートになっているということもある。
この希望とか、不安などは、普段の生活で忘れることは非常に簡単なもの。
時々目をつぶりたくなるもの。
しかし、もしかしたら、人生において、
もっとも大切なものかもしれない。
If
何が正解で、何が間違いかは、その時が来るまでは分からない。
計算することはできる。
推測することはできる。
しかし、可能性は、いつだってフィフティフィフティ。
その50%に、私はかけると決めた。
50%だから、間違っているかもしれないけど。
50%の「希望」には、前提として「不安」が内包されているけど。
そういうものでしょう?
何かを信じるということは。
結婚でも、友情でも、何かの関係には、100%の確証などはなく、
ただ信じて、関係を構築していくだけだ。
神よ、私は、あなたを信じ、
あなたのことを第一に追い求めよう。
(神以外のこともほどほど大切にしつつ)
さあ、合っているのか、間違っているのか。
その解は、神のみぞ知る。
思考停止 Frozen Brain
「どこまで考えるのか」と考える。
例えば、
・Aさんは、「ほうれん草は体に良い」と言う。
・Bさんは、「ほうれん草は、ビタミンがたくさん含まれているから体に良い」と言う。
・Cさんは、「ほうれん草に含まれるビタミンCは、抗酸化作用があり、ガンや動脈硬化、脳卒中、糖尿病などの予防になるから体に良い」と言う。
日常生活において、どこまで追求するのか、と考える。
部下が、前日に締め切りの書類を遅れて提出してきたときに、
・部下は仕事ができないダメなやつとみなすのか、
・それとも、もしかしたらプライベートで大変なことがあり、仕事が手につかずに、提出が遅れてしまったのか、と推測するのか。
考えようと思えば、いくらでも考えることができる。
可能性を追求しようと思えば、どこまででも追及できる。
しかし、「健康に良いから甘酒飲んでいるのよー」という人に、
「確かに甘酒は良いよね~。○○や▢▢の成分が入っているし、△△という栄養素は××にも効くしね」という風に返答すれば、多くの人にはドン引きされてしまうでしょう。
どこかで、落ち着くレベルがある。
どこかで、思考を停止する瞬間がある。
そして、そこに到達するまでの深さは、人によって異なるし、
どの領域の話をするのかによってもその深さは異なる。
しかし、共通しているのは、必ずどこかで考えることをやめる瞬間が出てくる、
ということでしょう。
それはなぜか。
単純に、大変だから。
相手に傷つく言葉を吐いてしまった。
・相手は今辛いと思っているかもしれない。
・もしかしたら、別れたいと思っているかもしれない。
・もしかしたら、別の友達と相談して、自分の悪口を一緒に言うのかもしれない。
・もしかしたら、悪口を言うだけではなくて、過去にしたあのことやそのことも話しするかもしれない…。
・もしかしたら、もしかしたら、もしかしたら…。
いろいろと考えるかもしれませんが、
多くの人は、上の2行目や3行目でストップするのではないでしょうか。
もちろん、人によっては、6行目や7行目まで作り出す想像力の豊かな人もいるでしょう。
ただし、悪いことの考えすぎは、うつ病を誘発し、
良いことの考えすぎは、ナルシストの始まりかもしれません。
そう考えると、思考停止は、人が身に着けた一種の適応なのかもしれません。
いちいち考えて過ぎてしまっては、こちらが病んでしまう。
判断材料が増えすぎてしまっては、結局決断はできない。
どこかで考えることをやめなければ、生きることが大変になってしまう。
(全く考えないのも、厚顔無恥になってしまうかもですが)
環境保護主義者、
と呼ばれるような人たちは、
「環境は守ったほうが良い」、
「お肉はできるだけ控えて、野菜を多めに食べたほうが良い」、
「ものは少ないほうが良い」、
と言った誰もが納得するような命題からスタートして、
平均以上の深さまで思考を突き進めた人たちか、
独自の虫眼鏡を持ち、ある意見を極端に拡大して大切だと捉える人たちと言えるでしょう。
では、「宗教家」もしくは、「無神論者」と呼ばれる人たちはどうでしょうか。
当然ですが、
「神は存在するのか」
が最初のスタートラインになるでしょう。
そして、いろいろな人や本の意見を聞いて、神が存在すると思えば、
宗教家と言われ、その神がキリスト教の神であれば、クリスチャンと呼ばれ、
神がいないと思えば、無神論者と呼ばれるのが一般でしょう。
しかし、この「神は存在するのか」という問いから、
次のレベルへ向かおうとする人が、一体どれくらいいるでしょうか。
私は、少ないと思うからこそ、
神を信じる、と言う人も、神を信じないという人も、
信念という領域まで到達した人であれば、
等しく尊敬の念を覚えます。
よく、神を信じる人は、盲目的だ、と聞きます。
言い換えれば、思考を停止しているか、
天国や、神の加護など、都合の良い部分だけを信じていると。
もちろん、すべてを知りえない以上、どこかで思考を停止せざるを得ないわけですが、
同様に、
「みんながそう思っているから」
「偉い人がそう言っているから」という理由で、
他者に迎合し、それ以上深くを思索をしないことは、盲目的信仰と同じで、
思考停止をしているにすぎないでしょう。
そして、私の願いは多くの人が、
「神は存在するか」の問いからスタートし、
自分なりの深さまで到達した上で、
神が存在するかどうかの結論を出すことです。
それが、イエスでもノーでも、どちらであったとしても。
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皆さんこんにちは、
コトワドです。
私はよく、思考停止にあわせて、「不都合な真実」ということを考えます。
そのことについて語る前に、
読者の皆さんは、
「神は存在して欲しい」と思う人、「神は存在しないで欲しい」と思う人と、
どちらが多いと思いますか。
別に、キリスト教の神に限らずとも、アッラーでも、エホバでも、ゼウスでもガネーシャでも、天照大神でも、漠然とした「神」でも、ご先祖様でも、「常に私たちを見守ってくれていて、死後にであうことができる」存在であれば、なんでも大丈夫です。
………。
直接の回答からはそれますが、
私は、もし神などが存在せずに、死後も自分が「ゼロになる」のであれば、
楽だなぁとは思います。
私は、自分自身がそこまできれいな存在ではなく、
普段はいやしいことも考えているし、
後ろめたいこともたくさん人生で行ってきていることを知っているからです。
聖書の神は、私の髪の毛の総数まで知っている神として描かれていますが、
もし神の存在を認めてしまうと、私が普段どんなに神のことをがっかりさせてしまっているかに向き合わなければならず、心理的に気持ち良いものではありません。
そして、私と同じように、とは言いませんが、
自分の生き方に心から胸を張れる人、白黒包み隠さずに、ご先祖様に自分のすべてを誇れるぞ、という方は何人いるでしょうか。
晩年のマザーテレサくらいではないでしょうか。
私は、醜い自分を知っているからこそ、神が存在することからは目をそむけたくなりますし、クリスチャンとしての自分に生き辛さを感じてしまうこともあります。
人は、意識的に自覚しているかどうかは別として、
神は存在しない、という前提の方が、生きやすいものではないでしょうか。
そしてそれば、今述べたような個人での領域に限らず、
社会的、政治的なレベルでの「神の都合の悪さ」は同様でしょう。
当然ですが、多くの社会のシステムや制度が「この世」に焦点を当てたものになっています。
どうすれば、もっとハッピーに暮らせるか。
お金を稼げるか。お互いに支えあうことができるか。
「あの世」に焦点を当てて、不確実な信仰をよりどころにして
どうすればもっと神を喜ばせることができるか、どうすれば天国に行けるか、
といったことを助長するような制度は一切ありません。
同様に、例えば、世の中には週末はどこかに旅行しよう、といった動機は満ち溢れていますが、週末はボランティアをしよう、という動きに変わっていくことを、既存の旅行会社の人などは快く思わないでしょう。
つまり、「神はいるのか」という問いをスタートする際に、
「神は存在しないで欲しい」という願いが、個人レベルでも社会レベルでも
ある程度存在するのではないかと思うのです。
神が存在することを認めてしまえば、
個人でも、社会でも、ぶつかる部分が山ほどでてきてしまうでしょう。
そしてそれは、
冒頭での、どこまで考えるのか、につながる事でもあると思いますが、
社会的に非常に、「面倒くさいこと」であると思うのです。
ここで私が言いたいことについて、
別に信者にとって逆風が吹いている、
ということではありません。
「信仰」と言う領域は、
既に土台からしてフェアではないと文句をいうことでもありません。
私はただ、「思考停止だ」と言って
相手を判断する前に、自分自身が思考停止に陥っていないかどうかを
振り返ってもらえれば良いなと思っているにすぎません。
日本で過ごしていれば、
特に突き進んで考える必要もないけれど、
考えているからと言って、出世したり何か自分のためになったりするわけではないけれど、
周りから、「何?そんなこと考えているの?」と笑われてしまうかもしれないけど、
改めて、今、私がここに存在していること、
これが果たして偶然なのか、必然なのか。
命があること、
思考があること、
地球があること。
果たしてそこに意味があるのか、ないのか。
誰かの言葉ではなくて、
拙くても、自分の言葉で。
「私は○○だと思う。」と言えるようになること。
私は、重要だと思います。
この世で生を受けた以上、
生の意味を、一度問いてはみませんか。