健全な自尊心とは Healthy Self-esteem

 

「早起きに成功して、スキルアップのための読書をする」

 

「定期的に筋トレを行い、自分の健康管理や見た目に気を遣う」

 

「仕事で良い結果を出して上司から良い評価を得る、昇進につながる」

 

どれも、自分にとって、非常に気持ちが良い。自分のことが誇らしくなり、肯定的な気分を持つことができる。

 

もちろん、ポジティブな日ばかりが続くことはなく、日によっては落ちこんだり、自分に対して否定的な思いを感じることもたくさんある。

 

しかし、自分の願いとしては、少しでも多くの肯定感を感じられるように、日々を努力して過ごしていくことではないか。それが人間の根源的な欲求である。

 

そのようなモチベーションを持って日々を送り、毎日を走るように生きている中でふと気が付く。自分自身に対する肯定感が、他者からの評価や、自分自身の行動によって測られていることに。

 

同時に、気づく。自分が他者を見るときも、同様の尺度を用いていることに。

 

「Aさんはすごい。会議中にしっかりと発言して、周りを説得してプロジェクトを成功に向かわせている」

 

「Bさんは少し。。。いつも遅刻するし、体型も少しだらしないし、ちょっと距離を置きたい」

 

...

 

自分は自分のことを優しい人間だと思って生きてきた。

そして、自分自身にもっと自信を持ちたくて、大学生のある時、様々な努力をしてここまで来ることができた。

自分自身の努力や成果に裏付けされた、ある程度の自分に対する自信も持つことができた。

 

しかし、その自信は日々の生活の中で、達成/不達成の基準によって上昇と下降を繰り返す、不安定な自信だ。

 

同時に、自分は冷酷な人間になった。表面的には笑顔で相手に接し、友好的にふるまいを行うが、相手が「すごく」ないと感じた際には、心の中では勝手に相手を下に見て、Bad のラベルを張っているのだから。

 

この生き方は間違っているのか。

 

そうはいうものの、それが当たり前ではないか。多くの人は自分自身や相手を見る際に、自然と相手の行動や、達成したことを見て評価するのは当たり前ではないのか。それで社会が回っているのではないか。

 

...

 

しかし、ある価値観が真実であるということと、自分がその価値観に従うかどうかは、別の軸である。

 

例えば、世界は基本的には資本主義であり、お金を多く持っている人が成功者であるとみなされる。それが基本的な価値観である。

 

しかし、その価値観から外れ、あえてたくさんのお金を持たずに、家族との時間を過ごしたり、または、副業の代わりに、ボランティア活動を積極的に行う人たちの存在もある。メインストリームを歩く人達には、意味が分からない行為だろう。

 

では、自分はどうだろう。。。

 

 

 

人生とは、選択である。

 

どの価値観を選択して生きていきたいのか。世の中が当たり前だとみなしている判断基準に即していくのか、哲学者や神学者のように、独自の判断基準に従い、価値観を気づいていくのか。。。

 

...

 

いろいろと試行錯誤した末、私は、人間が独自に作り上げてきた価値観ではなく、聖書と、聖書の神が作り上げた価値観に従うことにした。

 

「聖書や聖書の神の自体、人間が作ったものではないか」

 

あなたはそう言うでしょうか。それもあなたの価値観でしょう。そしてそれは、日々の感覚や、科学的な証拠に裏打ちされた、立派な価値観であると思います。

 

実際に、日本人の99%は、神や超越した存在はいるかもしれないと思いつつも、聖書自体はただの物語であると感じているでしょう。ギリシャ神話や、古事記と同様、人間が作成した宗教であり、真理にはなり得ないと。。。

 

自分自身も以前はそのように感じていたので、よくわかります。

 

・「宗教」て何だか怖い。頭が悪いか、心が弱っている人がすがるように信じるものでしょう。

・必要心によって、人間が作り上げたものでしょう。

・仮にそれが正しいとしても、その正しさによって多くの戦争や紛争が起きているのだから、そんなものを自分は信じたくない。。。

 

その気持ちはすごく尊重できる。

 

ただし、ここでも2つの軸を用意する必要がある。自分が見ている「現実」と「真実」は別の尺度である。

 

キリスト教によってもたらされたネガティブな面はたくさんある。しかし、だからといってそれが真実ではないとは、誰も言うことができない。

 

日常生活の感覚や推論から、真実を導き出すことは難しい。特にそれが、すべての「始まり」に関するものであればあるほど。

 

これは、信仰の問題である。

 

「神を信じること」これはもちろん信仰だ。

 

「神を信じないこと」も、同様に、神がいないと信じる点において、信仰であると思う。

 

なぜ、自分は日本人のメインストリームに反した聖書の神の存在を選択するのか、この点は、次回のブログにて記述したい。

 

...

 

話を戻すと、自分は、神を信じることにより、それまで持っていた物差しを手放すことにした。

 

そして、自分が今持とうとしている物差しは、「すべての人間は神によって創造され、それ故に存在それ自体が尊いものである」というものである。

 

自分や相手が行った行動ではない、人間の存在自体が、神に愛されて創造され、それ故に自分自身も積極的に愛していきたい存在である、ということ。

 

もちろん、だからと言って行動自体が無意味であるわけではない。

 

実際に、自分は、自分自身を高めるための努力は今後も行っていきたい。しかし、それは、自分自身が気持ちよくなるための努力ではなく、あくまでの神にもらった恵みを、精一杯生かし、最終的には神の栄光を示すための努力である。

 

もし人から褒められることがあれば自分はこう言いたい。

 

「ありがとう、でも、神のおかげだよ」

 

...

 

違和感を感じるでしょうか。

 

でも、個人的なレベルでは、真実だと思う。

自分はもともと、自分自身に誇れるものは本当に何もなかった。

容姿は普通、勉強やスポーツが特別にできるわけではなく、友人とのコミュニケーションも別に優れおらず、すべてが月並みな存在であった。

 

しかし、大学生の時、留学先にて神の存在に知ることができ、もちろん全てが信じれたわけではなく、納得感よりも疑問の方が多かったが、自分はその価値観を「実験的」に当てはめてみることにした。10年くらい経った今、その実験は今も続いているが、神の存在は上昇と下降を繰り返しつつも、少しづつ身近な存在になっている。

 

そして客観的に変わったと言えることは、自分自身と、周りの環境が良い方向に変化したことだ。

 

・自分は優しくなれた。

・周りの人とのコミュニケーションが改善した。

・やりたい仕事に就くことができた。

 

あなたは言うかもしれない。

 

「これらはクリスチャンになったから達成できたことなのか。他の要因があるのではないか」

 

もちろんそうかもしれない。ただし言えることは、クリスチャンになる前の自分と、なった後の自分を比較した際に、なった後の自分の方が好きな存在であるということ。

 

だから、自分は自分自身や他者を見る際に、自分自身や世の中の基準ではなく、神の基準を持っていたい。

 

そしてその基準とは、「すべての存在(隣人)が愛すべき存在である」ということだ。「目の前の人を愛すること」は、神を愛することに加えて、聖書の中の一番大切な個所である。

 

(そしてクリスチャンが一番忘れがちな部分でもある(笑))

 

だから、自分は、神が自分にもたらした恩義を忘れたくない。

 

神の子であるイエスは自分のために一度死に、よみがえったこと※。

 

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※注意書

蘇りとは、私たちが「科学的」だとか「常識」だとか言っていることを超越した行為である。もともとの存在が超越した設定なので、超越したことが起こっても、別に不思議ではないと感じていただけますでしょうか。

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そのよみがえりに自分自身を重ね、過去の自分は脱ぎ捨て、今日も一日、神の存在を意識して生きていきたい。

 

自分や宇宙や、創造や、破壊や、法則を超越した存在が自分を愛してくれていること、

 

その温かみを自分自身への肯定感に変えて。

 

 

 

 

 

 

Kotowadoは、

・毎朝、早起きをして努力をしている優れた存在ではない、

・筋トレを定期的に行い、自己管理ができている努力家ではない

・仕事のパフォーマンスが優れ、上司からも信頼される人間ではない

 

ただの、一人の卑しい人間であり、卑しくも、神の愛と恵みによってここまで来ることができた。そういう存在なのである。

 

さあ、目の前の人を愛そう。

 

 

落ちないりんご Apple in the Air

木から離れたりんごは、地面に向かって落ちる。これは重力の法則だ。

 

では、その落ちてきたりんごを途中でキャッチしてみたらどうだろう。

 

当然、りんごは地面に到達することはない。

これは、重力の法則を侵害していることになるだろうか。

 

答えはノー。

 

ただし、もしこのりんごを掴む手が、透明であったり、

もしくは、りんごの木が柵か何かで囲まれていて、りんごの落ちる瞬間と、

りんごが地面に落ちなかったことだけを見ると、

多くの人にとってはびっくりする結果となるだろう。

 

「途中で一体何が起こっているのだ」

「りんごが地面に落ちないのはおかしい!」

 

私は、神の奇跡について考えるときに、このような考え方をする。

 

奇跡とは、神が自ら創造した自然法則に介入した瞬間の出来事である。

 

別に自然法則に矛盾しているのではなく、ただたんに、神が創ったその法則 (ここでは重力) に、神自身が何かのきっかけで「よっこいしょ」と、手を伸ばしている (介入) に過ぎないと。

 

モーセが海を二つに割るのも、

・エジプトで、全地が闇に覆われるのも、

・イエスが嵐を叱ってそれを沈めたのも、

・イエスが三日後に、死から蘇ったのも、

 

もともと、海、闇 (=光)、嵐と、それらを伴う環境と法則を創ったのは神であり、

それを「いじること」は、いわば神にとってできて当たり前のことであると感じる。

 

大人であれば*、お化け屋敷に入って宙に浮かぶ火の玉を見たところで、自然法則を無視していると考える人はいないだろう。後ろに「仕掛け人」がいるのが明白であり、お化け屋敷自体が「作られたもの」であることが明白なためだ。

 

(*ただし、子供にとっては、仕掛け人や、火の玉をぶら下げている透明なロープなどの存在を把握しきれていないため、火の玉を見た際に理解を超えたものとして、恐怖心を感じるのではないだろか)

 

この世界はどうだろう。聖書では、神が7日間で全てを創造されたとある。言い換えれば、『地球屋敷』を創造された。その中に存在する火も、重力も、水も、私たちが目に見えている物/見えていないもの全ての素材を創造された。

 

その視点に立った際には、むしろ神が重力や火を自由に操れないことの方が、違和感を感じるのではないだろうか。「え、自分で作ったんじゃないの?」と。

 

神を前提とする人にとっては、奇跡と聞いても、「まあそうだよね。全然あるある。」となりえるのではないだろうか。

 

逆に、自然法則を作った神の立場に立たない際には、このような現象は自然法則に矛盾したものであり、人知を超えたものであり、トリックや錯覚であると認知 (帰属) してしまうのであろう。

 

このような認識を持った時、問うべき問題は、『奇跡は存在するかどうか』ではなく、『神は存在するかどうか』ではないだろうか。

 

「確かに、もし、神が自然法則を創造したのであれば、その法則自体に介入することは十分可能である」と。

 

ノアの箱舟の時代のように、雨が連続で何十日間も降り続けても、りんごが途中で落下するのをやめて、どこかに逆に飛んで行っても、4匹しかなかった魚が分裂して50匹になったとしても。別に驚くべきことではないのだと。。。

 

――――――――

 

皆さんこんにちは、NYで駐在のサラリーマンをしているコトワドです。

 

もともとは神を疑う存在で、今でも常にクリティカルシンキングを持って神を見つめています。

 

今回のブログでは、「神の創造と、全能性」を前提とした際には、奇跡それ自体は、もはや障壁ではないとお話させていただきました。今後も、神を見つめる中で感じた、様々なトピックについて取り上げていくことができればと思います。

 

このブログの目的の一つは、最後の問いであげた「もし」を探求することであり、今後も、私自身が学びつつも、皆さんに発信していくことができればと思います。

 

最後に、

 

なんだかんだ言いまして、りんごが空を飛んで自分に向かってきたら驚くとは思いますが、同時に「やっぱりね(フフフ)」と思えるような心の準備は、常にしておきたいなと感じる今日この頃です。

 

最後まで読んでいただいてありがとうございました。

 

 

 

前に、前に、前に、、、 Always moving forward

人は言う。

「限界は自分で設定しているだけだ」と。

「信念を持って挑戦し続ければ成功する」と。

 

そしてそれは真実だろう。

人は、恐らく何にでもなれるし、いつからでも挑戦をすることは可能だと思う。

 

自分の中で二つの声がする。

 

「君は、どこに行きたいの?」

そして、

「神様は、なんて言っているの?」

 

私はKotobaWord.

社会人サラリーマン。20代後半。

仕事はそこそこ充実していて、やりがいも感じている。

このまま仕事に没頭し、収入や地位を高めて行きたい希望はある。

 

その一方で、私はクリスチャン。

追求するのは、この「世」に属するものではなく、「天」に属するもの。

私の理想は、神が私に望んでいるものを望み、神の中で満ち足りた生活を送ること。

 

そのはざまで生きる。

 

そして、生きている私は、弱い人間だ。

神の中で生きることを願うと言いつつも、他人の目を気にし、

与えられた新しい役職に喜び、人から認めてもらうために仕事を人一倍頑張り、

上司や周りから尊敬の念を与えられることを願っている。

そして、より高い地位、より高い給料に吸い寄せられようとしているのだろう。

 

努力やハードワーク、そしてそれに伴う出世や高い給料それ自体は悪いものではないだろう。

自分の心がどこを向いているかが大切なのか。

人からの称賛を集めるための出世なのか、それとも、自分がともし火になり、人々を照らすため (マタイ5章15-16章) の出世なのかによって、その意味合いは180度異なる。

 

お金稼ぎはどうだろう。

インターネットで検索をしていると、「ユダヤ人のお金に関する考え方」という面白い引用を見つけることができた。

 

世の中には、色々な人がいる。お金儲けの出来る人はドンドンお金を儲ければいい。お金儲けをした人は、お金を儲ける才能のない人に与えればいい。人にお金を恵むときは、全員に配った方がいい。もらった人が恵んでもらったという惨めな気持ちにならないで済むからだ。しかし、どうしても一人の人にお金を恵むときは、むしろその人にお金を貸す形をとった方がいい。貸し借りは対等だから、借りた方が惨めにならないで済む。そのかわり、取り立ててはいけない。返せるときに返してもらうようにせよ。

 

ハッとさせられた。

聖書では、神から与えられた良いものを「賜物」と表現しているが、

ビジネスでは、「スキル」や「能力」ということができるだろうか。

 

神からのAという賜物は、持っている人もいれば、持っていない人もいる。

それを活用することは、決して神の意図に反することではなく、むしろ準ずることであるということ。

Aという賜物を持っている人は、同じ賜物を持っていない人を助け、逆にBという賜物を持っている人に助けてもらえば良い。

 

自分にとって何か得意なこと、好きなことがあるとすれば、それは伸ばしていこう。

仕事で成長したり、出世したりするチャンスがあれば、積極的につかんで行こう。

それを与えてくれた、もしくは自分が手に入る土壌を与えてくれた神に感謝しつつ。

 

それぞれが賜物を受けているのですから、神のさまざまな恵みの良い管理者として、その賜物を用いて、互いに仕え合いなさい。(1ペテロ4:10)

 

私たちは、与えられた恵みに従って、異なった賜物を持っているので、もしそれが預言であれば、その信仰に応じて預言しなさい。奉仕であれば奉仕し、教える人であれば教えなさい。勧めをする人であれば勧め、分け与える人は惜しまずに分け与え、指導する人は熱心に指導し、慈善を行なう人は喜んでそれをしなさい。(ローマ12:6-8)

 

神様、あなたからの賜物に感謝します。

宇宙も、太陽も、地球も、この世のすべてを創造したのがあなたであるのならば、

当然、私が身に着けている服や、このパソコン、自分の能力、細胞でさえ、あなたがデザインし、私のために用意してくれたものなのでしょう。

あなたの前に、へりくだります。

そして、あなたのために、与えられた賜物を活かしきった人生を送ります。

最後の時に、「良い僕だ」と言っていただけるように (マタイ 25章23節)。

 

 

対立 Conflict

「私は、人に取り入ろうとしているのか、それとも、神に取り入ろうとしているのか。もし、何とかして人に気に入られようとしているのであれば、私は、キリストの僕ではありません (ガラテヤ書 1章10節)

 

「私が来たのは、地上に平和をもたらすためではない。剣をもたらすために来たのだ。私は、敵対させるために来たからである。 (マタイによる福音書10章34節)

 

 

――――――――

 

 

美味しいものを食べる。

 

ああ幸せ。

 

きれいで大きな家に住む。

 

とっても幸せ。

 

好きな友達に囲まれる。大きな大会で優勝する。仕事で上司から認められる。

 

心が満たされる。

 

しかし、そこに神がいないとすれば?

 

・・・

 

表面的な満足感の下に潜む不安。

あるいはもしかすると、その不安には気づかないかもしれない。

気づきたくはないかもしれない。

 

 

逆のパターンはどうだろう。

 

料理は美味しくない、家は狭くて汚れている。

友達は少なく、人からもなかなか認めてもらえない。

それでも、神を意識し、神を感じ、神とともにいるという感覚。

 

ここには、希望があると。

 

――――――――

 

 

一体、何の話をしているのか。

 

不安とか、希望とか、自分をどきっとさせるようなことばかり言って、

信者たちは、そうでない人たちを煽ることしか考えていないのか。

 

自分を不安にさせるのは、神ではなく、信者の妄想ではないか。

 

 

いいえ。

どちらかというと、今回のブログは、自分自身に向けて書いている。

 

ただし、不安や、希望といった感情は、現実のものだ。

信者でも、信者ではなくても感じる。

それが、普段の生活に根差しているのか、神に根差しているのか、

そこが大きな違いだ。

 

(いや、たとえ信者でなくても、「生」や「死」といったテーマを考えた際に感じる

漠然とした不安は、誰もが経験したことがあるでしょう。)

 

 

私たちは、目の前の生活ではなく、

目の前の生活の裏にいる存在に、目を向けている。

 

しかし、いくら「目の現実がすべてではない」と思ったところで、

どうしても目の前の美味しいものや、きれいな建物や、人間関係だって大切で、

それらを全く無視することは無い。

 

むしろ、信者であっても、

神の国を第一に求める」(マタイによる福音書6章33節)

ということは非常に難しい。

 

だからこそ、私にとっての信仰生活は、行ったり来たりだ。

 

希望を感じるときもあり、

不安を感じるときもあり、

それらに向かい合いたいときもあり、

それらに目をつぶりたくなることもあり、、、

 

 

信じたらそこがゴールではなく、

むしろ、信じてからの道のりが、日々の決断が、

本当のスタートになっているということもある。

 

この希望とか、不安などは、普段の生活で忘れることは非常に簡単なもの。

時々目をつぶりたくなるもの。

 

しかし、もしかしたら、人生において、

もっとも大切なものかもしれない。

 

 

If

 

 

何が正解で、何が間違いかは、その時が来るまでは分からない。

 

計算することはできる。

推測することはできる。

 

しかし、可能性は、いつだってフィフティフィフティ。

 

その50%に、私はかけると決めた。

 

50%だから、間違っているかもしれないけど。

 

50%の「希望」には、前提として「不安」が内包されているけど。

 

そういうものでしょう?

 

何かを信じるということは。

 

結婚でも、友情でも、何かの関係には、100%の確証などはなく、

ただ信じて、関係を構築していくだけだ。

 

 

神よ、私は、あなたを信じ、

あなたのことを第一に追い求めよう。

(神以外のこともほどほど大切にしつつ)

 

 

さあ、合っているのか、間違っているのか。

 

その解は、神のみぞ知る。

 

 

思考停止 Frozen Brain

「どこまで考えるのか」と考える。

 

例えば、

・Aさんは、「ほうれん草は体に良い」と言う。

・Bさんは、「ほうれん草は、ビタミンがたくさん含まれているから体に良い」と言う。

・Cさんは、「ほうれん草に含まれるビタミンCは、抗酸化作用があり、ガンや動脈硬化脳卒中、糖尿病などの予防になるから体に良い」と言う。

 

日常生活において、どこまで追求するのか、と考える。

 

部下が、前日に締め切りの書類を遅れて提出してきたときに、

・部下は仕事ができないダメなやつとみなすのか、

・それとも、もしかしたらプライベートで大変なことがあり、仕事が手につかずに、提出が遅れてしまったのか、と推測するのか。

 

 

考えようと思えば、いくらでも考えることができる。

可能性を追求しようと思えば、どこまででも追及できる。

 

しかし、「健康に良いから甘酒飲んでいるのよー」という人に、

「確かに甘酒は良いよね~。○○や▢▢の成分が入っているし、△△という栄養素は××にも効くしね」という風に返答すれば、多くの人にはドン引きされてしまうでしょう。

 

 

どこかで、落ち着くレベルがある。

どこかで、思考を停止する瞬間がある。

 

そして、そこに到達するまでの深さは、人によって異なるし、

どの領域の話をするのかによってもその深さは異なる。

 

しかし、共通しているのは、必ずどこかで考えることをやめる瞬間が出てくる、

ということでしょう。

 

それはなぜか。

 

単純に、大変だから。

 

相手に傷つく言葉を吐いてしまった。

・相手は今辛いと思っているかもしれない。

・もしかしたら、別れたいと思っているかもしれない。

・もしかしたら、別の友達と相談して、自分の悪口を一緒に言うのかもしれない。

・もしかしたら、悪口を言うだけではなくて、過去にしたあのことやそのことも話しするかもしれない…。

・もしかしたら、もしかしたら、もしかしたら…。

 

いろいろと考えるかもしれませんが、

多くの人は、上の2行目や3行目でストップするのではないでしょうか。

もちろん、人によっては、6行目や7行目まで作り出す想像力の豊かな人もいるでしょう。

 

 

ただし、悪いことの考えすぎは、うつ病を誘発し、

良いことの考えすぎは、ナルシストの始まりかもしれません。

 

そう考えると、思考停止は、人が身に着けた一種の適応なのかもしれません。

 

いちいち考えて過ぎてしまっては、こちらが病んでしまう。

判断材料が増えすぎてしまっては、結局決断はできない。

 

どこかで考えることをやめなければ、生きることが大変になってしまう。

(全く考えないのも、厚顔無恥になってしまうかもですが)

 

 

環境保護主義者、

菜食主義者

ミニマリスト

 

と呼ばれるような人たちは、

「環境は守ったほうが良い」、

「お肉はできるだけ控えて、野菜を多めに食べたほうが良い」、

「ものは少ないほうが良い」、

 

と言った誰もが納得するような命題からスタートして、

平均以上の深さまで思考を突き進めた人たちか、

独自の虫眼鏡を持ち、ある意見を極端に拡大して大切だと捉える人たちと言えるでしょう。

 

では、「宗教家」もしくは、「無神論者」と呼ばれる人たちはどうでしょうか。

 

当然ですが、

 

「神は存在するのか」

 

が最初のスタートラインになるでしょう。

 

そして、いろいろな人や本の意見を聞いて、神が存在すると思えば、

宗教家と言われ、その神がキリスト教の神であれば、クリスチャンと呼ばれ、

神がいないと思えば、無神論者と呼ばれるのが一般でしょう。

 

しかし、この「神は存在するのか」という問いから、

次のレベルへ向かおうとする人が、一体どれくらいいるでしょうか。

 

私は、少ないと思うからこそ、

神を信じる、と言う人も、神を信じないという人も、

信念という領域まで到達した人であれば、

等しく尊敬の念を覚えます。

 

よく、神を信じる人は、盲目的だ、と聞きます。

言い換えれば、思考を停止しているか、

天国や、神の加護など、都合の良い部分だけを信じていると。

 

もちろん、すべてを知りえない以上、どこかで思考を停止せざるを得ないわけですが、

同様に、

「みんながそう思っているから」

「偉い人がそう言っているから」という理由で、

他者に迎合し、それ以上深くを思索をしないことは、盲目的信仰と同じで、

思考停止をしているにすぎないでしょう。

 

そして、私の願いは多くの人が、

「神は存在するか」の問いからスタートし、

自分なりの深さまで到達した上で、

神が存在するかどうかの結論を出すことです。

 

それが、イエスでもノーでも、どちらであったとしても。

 

 

――――――――

 

皆さんこんにちは、

コトワドです。

 

私はよく、思考停止にあわせて、「不都合な真実」ということを考えます。

 

そのことについて語る前に、

読者の皆さんは、

「神は存在して欲しい」と思う人、「神は存在しないで欲しい」と思う人と、

どちらが多いと思いますか。

 

別に、キリスト教の神に限らずとも、アッラーでも、エホバでも、ゼウスでもガネーシャでも、天照大神でも、漠然とした「神」でも、ご先祖様でも、「常に私たちを見守ってくれていて、死後にであうことができる」存在であれば、なんでも大丈夫です。

 

 

………。

 

 

直接の回答からはそれますが、

私は、もし神などが存在せずに、死後も自分が「ゼロになる」のであれば、

楽だなぁとは思います。

 

私は、自分自身がそこまできれいな存在ではなく、

普段はいやしいことも考えているし、

後ろめたいこともたくさん人生で行ってきていることを知っているからです。

 

聖書の神は、私の髪の毛の総数まで知っている神として描かれていますが、

もし神の存在を認めてしまうと、私が普段どんなに神のことをがっかりさせてしまっているかに向き合わなければならず、心理的に気持ち良いものではありません。

 

そして、私と同じように、とは言いませんが、

自分の生き方に心から胸を張れる人、白黒包み隠さずに、ご先祖様に自分のすべてを誇れるぞ、という方は何人いるでしょうか。

 

晩年のマザーテレサくらいではないでしょうか。

 

私は、醜い自分を知っているからこそ、神が存在することからは目をそむけたくなりますし、クリスチャンとしての自分に生き辛さを感じてしまうこともあります。

 

人は、意識的に自覚しているかどうかは別として、

神は存在しない、という前提の方が、生きやすいものではないでしょうか。

 

そしてそれば、今述べたような個人での領域に限らず、

社会的、政治的なレベルでの「神の都合の悪さ」は同様でしょう。

 

当然ですが、多くの社会のシステムや制度が「この世」に焦点を当てたものになっています。

どうすれば、もっとハッピーに暮らせるか。

お金を稼げるか。お互いに支えあうことができるか。

 

 

「あの世」に焦点を当てて、不確実な信仰をよりどころにして

どうすればもっと神を喜ばせることができるか、どうすれば天国に行けるか、

といったことを助長するような制度は一切ありません。

 

同様に、例えば、世の中には週末はどこかに旅行しよう、といった動機は満ち溢れていますが、週末はボランティアをしよう、という動きに変わっていくことを、既存の旅行会社の人などは快く思わないでしょう。

 

つまり、「神はいるのか」という問いをスタートする際に、

「神は存在しないで欲しい」という願いが、個人レベルでも社会レベルでも

ある程度存在するのではないかと思うのです。

 

 

神が存在することを認めてしまえば、

個人でも、社会でも、ぶつかる部分が山ほどでてきてしまうでしょう。

 

そしてそれは、

冒頭での、どこまで考えるのか、につながる事でもあると思いますが、

社会的に非常に、「面倒くさいこと」であると思うのです。

 

 

 

 

ここで私が言いたいことについて、

 

別に信者にとって逆風が吹いている、

ということではありません。

 

「信仰」と言う領域は、

既に土台からしてフェアではないと文句をいうことでもありません。

 

 

私はただ、「思考停止だ」と言って

相手を判断する前に、自分自身が思考停止に陥っていないかどうかを

振り返ってもらえれば良いなと思っているにすぎません。

 

 

日本で過ごしていれば、

特に突き進んで考える必要もないけれど、

考えているからと言って、出世したり何か自分のためになったりするわけではないけれど、

周りから、「何?そんなこと考えているの?」と笑われてしまうかもしれないけど、

 

改めて、今、私がここに存在していること、

 

これが果たして偶然なのか、必然なのか。

 

命があること、

思考があること、

地球があること。

 

果たしてそこに意味があるのか、ないのか。

 

 

誰かの言葉ではなくて、

拙くても、自分の言葉で。

 

「私は○○だと思う。」と言えるようになること。

 

 

私は、重要だと思います。

 

 

この世で生を受けた以上、

生の意味を、一度問いてはみませんか。

 

 

 

『主語』 "It's not about me."

 

「私の人生の主人公は私だ。」

という言葉は、本や、ドラマや、ある種のセミナーなどでよく耳にします。

 

私も好きな言葉です。

 

生きる中で、環境が私たちに与える影響は非常に大きいですが、

その中で流されるのではなく、自分の意思を尊重していこうという、

自立的な信念が感じられます。

 

「あの人のことが好きだけど、嫌がられるかもしれないから告白しないでおこう」や、

「今の仕事が気に入っておらず、転職したいけど失敗したらどうしよう」、

「留学したいけど、英語力がなく、勇気がでない…」など、

 

人生で、どちらの道に進むべきか分からない際に、

自分が本当に向かいたい方向へと導いてくれる、

力強い言葉だと思います。

 

 

その一方で、クリスチャンとしての私は、この言葉に

惑わされることがあります。

 

恐らく、この言葉を発する人は、そのような意図をもってはいないと思うのですが、

私は、この種の発言を聞くために、自然と以下のようなメッセージを受け取ってしまいます。

 

「私」が大切であるということ。

 

「私は、幸せにならなければいけない」

「私は、出世しなければいけない」

「私は、成功しなければいけない」

 

 

自分自身を人生の主人公におくことで、

私は、私自身に責任を課してしまうように思います。

 

そしてそれは、

時には重い生き方ではないでしょうか。

 

 

私は、時々考えることがあるのですが、

世の中の不幸の多くは、「私」が中心になってしまうことで

起こるのではないでしょうか。

 

例えば、

・「私が」仕事終わりにゆっくりしたいから、

家に帰ってきたときにご飯が用意されていなかったら怒ったり、

・「私が」周りの人から尊敬されたいから、

部下や同僚がきちんと仕事をしてくれないといらいらしたり、など。

 

 

「私が気持ちよくありたい」という動機があるからこそ、

気持ちよくなれない現状に直面したときに、

不満が生まれるのではないでしょうか。

 

 

少し極端な考え方ですが、

「私なんてどうだっていい」と思えば、

少なくとも私たちが感じているいらいらの多くは

解消されるのではないでしょうか。

 

そして、逆説的ではありますが、

「自分なんてどうだって良い」と思えることで、

他者に対する優しさや思いやりがうまれ、

結果として、静的な、自己満足感がうまれると思います。

 

 

それは難しいと、

あなたは言いますか。

 

 

自分の人生から、「自分」を抜いたら、何が残るのかと。

周りの人を大切にしながら生きることはできても、

自分自身は抜け殻で、さみしい生き方ではないかと…。

 

 

自分の人生の主人公は、一体だれか。。。

 

 

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みなさんこんにちは、

コトワドです。

 

私は、クリスチャンです。

エスキリストと、神が、この世界を創造したと信じています。

 

実際にその瞬間を見たわけではありません。

しかし、それが書かれている聖書の信頼性を信じています。

聖書から離れたところでも、自分自身の経験や、

日々の着想の中で、聖書に書かれていることは本当なんじゃないかなと、

思っています。

 

そんなクリスチャンである私は、よく、以下のように祈ることがあります。

 

例えば、

仕事で大変なプロジェクトがあった際に、

「神様、私は今、大変不安です。私を守ってください、導いてください」や

日々の生活の中でむなしさを感じた際に、

「神様、私は今、満たされていないと感じます。あなたの愛で、私を満たしてください、私を幸せにしてください」、

 

などなど。

 

しかし、このような祈りは、

少し、的外れな祈りであるように感じます。

 

 

なぜなら、祈りの主語が「」になっているからです。

 

クリスチャンは、神が、この世界の中心であると考え、

神を賛美することが、人生の目的であると捉えています。

 

 

しかし、神が中心であると言いながらも、祈りの中では、

「私」ばかりを主語においてしまうのは、

本質を見誤っているのではないでしょうか。

 

 

言い換えると、

神を、自分が幸せを感じるための「手段」に捉えた考え方で、

祈っているのではないでしょうか。

 

確かに、神は私たちを愛していて、

神は、私たちに必要なものを与えてくれると聖書には書かれています。

 

『求めよ、さらば与えられん』と。

 

しかし、その聖書個所だけを意識して、

「神様、これちょーだい。後あれも。」といった態度を示すのは、

神を愛しているのではなく、

神がくれるものを愛している、という態度でしょう。

 

 

そしてそれは、少し偽善的な態度でもあると思います。

 

 

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冒頭の問いに戻ります。

 

私の人生から、私を抜いたら何が残るのか。

 

私は、神のみを残したい。

 

では、神を残すとは、一体何を意味するのか。

 

それは、神が、聖書の中で

「みなさんこれをしましょうね」といったことをすることでしょう。

 

いろいろとあるのですが、

実は、「これがとっても大切!」というのは二つしかありません。

 

それは、

(1) 神を信じ、愛すること。

(2) 隣人を、愛すること。

 

この二つだけです。

 

主語(目的語)は、「神」と「隣人」です。

 

 

私は、神がこの世界を創ったと信じる以上、

人生の主人公も、神であると信じたい。

 

そして、

自分が満足感を感じるために神を信じるのでも、祈るのでもなく、

 

ただ、「私」という自己を脱却したところにある満足感、

もしくは安心感の上に、

 

ただ ぷかぷかと浮かんでいたい。

 

 

みなさんは、何を主語におきますか。

 

『ハウ ドゥーユーノウ?』 How do you know?

「神は、いることもいないことも証明できない」

 

どこかで聞いたことのある命題ではないでしょうか。

よく考えてみると、これはその通りだなあと感じます。

なぜなら、目に見えないのですから。

 

ただし、仮に、目の前に現れたとしても、

今度は、それが妄想ではなく、実際に存在したのかどうか、

疑わしい。

 

仮に、妄想ではなくて、実際に確かにそこに「存在」があったとしても、

それが神だと言える根拠は何なのか。

神のふりをした悪魔や、人間のトリックによる可能性もあるのではないか。

 

 

結局は、その時の人間の解釈や、信念が、

その人の現実を作り上げていくのでしょう。

 

「〇〇であって欲しい」

「△△であるに違いない」

「▢▢なわけがない」

 

しかし、その根拠は、人間には知りえることはできず、

いちいち検証することも手間であるため、推測で、私たちは物事を判断し、

行動に移していることが多いでしょう。

 

 

プロポーズをする際には、

目の前の相手との将来は見えていません。

相手のことが好き、という感情も、

交感神経が優位に立ち、ドーパミン、アドレナリンなどの神経伝達物質の分泌に

よって生み出させる反応でしかありません。

 

しかし、この相手となら幸せな家庭を築くことができると信じ、

愛していると信じるからこそ、告白といった行動を起こすのでしょう。

 

 

「信じること」は、人間が持つ機能の中でも、

最も影響力があり、最も脆弱であり、同時に、最も美しいものであると思います。

 

 

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皆さんこんにちは、コトワドです。

 

私はクリスチャンですが、

クリスチャンではない方の視点からも、 

日々考察し、聖書を読むようにしています。

 

前回のブログで書いた、

「赤子のように神を信じる」からは矛盾してしまう点もあると思うですが、

批判的に聖書を読み、神について考えることで、

より神についても理解が深まることが多いためです。

 

信者の視点でスムーズに聖書を読むと、

どうしても「ぶつかる」という経験が抜けてしまいます。

 

この「ぶつかる」という過程が大切でして、これにより、

自分の中で「堪(こら)える」という状態が生まれ、堪えて、調べて、考えて、

「納得した」結果、前回よりも高い状態で、神を賛美する気持ちが生まれることがあります。

 

同様の理由で、

リチャードドーキンスによる「神は妄想である」や、

「進化論こそが正しい」といった旨の作品も、

聖書と同じレベルで、興味深く読むことができます。

 

それらの作品に触れて、自分の信仰生活が「揺れる」こともありますが、

(もちろん人間ですので)、揺れた後に、その振れ幅を生かして、

より太い信仰を作れることは、恵みだと感じています。

 

 

重い病気を患ってしまった人や、事故で子どもを亡くしてしまった人、

「沈黙(サイレンス)」という映画を見て、信仰のテンションを落としてしまった人が、

葛藤時期を経て、前回よりも強い確信で、

神を信じるようになるという経験もあるのではないでしょうか。

 

もちろん、それらの壁を経験することによって、

棄教 (信じなくなること) することもあると思います。

 

それも自然なことでしょう。

 

私たちは、確固とした「知識」という土台に両足で立っているのではなく、

「信念」という、もろくも揺らぎやすい土台の上に、片足を立てているのですから。

 

ですから、個人的な意見になるのですが、

クリスチャンの方も、盲目的に聖書を信じる、のではなく、

聖書に書かれていることが真実であるとある程度納得できるから信じる、

という姿勢の方が、信仰の土台が固まって良いと思います。

 

ただし、最終的には、信仰は、本人の努力によってではなく、

神の恵みによって与えられるものであることも、付け加えさせていただきます…。

(矛盾するようですみません…)

 

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さて、批判的な態度をもう少し続けさせてください。

 

恐らく、クリスチャンでない方からすると、

クリスチャンの人は、不思議だらけだと思います。

 

一番率直で、ざっくりとした質問は、

 

「どうして信じられるのか」 "How do you know?"

だと思います。

 

・世の初めには、神が世界を創造された。

・2,000年前に、イエスが十字架で処刑され、三日後に死から蘇った。

・世の終わり (終末) にはイエスがやってきて、信じるものと、信じていないものとを裁かれる。

 

確かに、今のクリスチャンの人は、それを実際に見ていないですよね。

 

「聖書に書いてあるから」と回答をしたところで、

「ではなぜ聖書が信じられるのか」といったように、

問いが形を変えるだけでしょう。

 

 

私の答えはこうです。

 

「知らないよ。でも信じられそうだから信じる」

 

プロポーズでもそうです。

相手のことは100%分からない。

でも、この相手となら、幸せになれそうだと信じる。

 

冒頭でも、「信じる」ことには、脆弱的な面があることを指摘しました。

美しい面があることもお伝えしました。

前回のブログにもつながりますが、むしろ、知っていないからこそ、

信じることには価値が生まれるのでしょう。

 

実際には、プロポーズした結果、離婚することもあるでしょう。

統計データは、それを物語っています。

 

ただ、今の私は、私がイエスと神について知っていること、

聖書が語っていること、自分自身の経験から、

 

「イエスさんってすごく感じが良くて、

自分のことをとても愛してくれているから、結婚したい!

普段のデートでもとても優しいの!

この前、車に轢かれそうになった時も、身代わりで自分のことを守ってくれたの!

(ちょっと頭が良すぎてたまに何を言っているか分からないことがあるけど…)」

 

みたいな心境で、信じると、回答することができます。

 

少し整理しますね。

 

「どうして信じられるのか」には、

三つの答え方があると思います。

 

1. 「根拠はないけど信じる 」

 

これは、姿勢的には美しいとは思いますが、少し盲目的で、

本人にとっても危険かなと思います。

「沈黙」や「神は幻想である」を読む、もしくは、

教会などの環境が変わることによって、

信じることをやめてしまうこともあるでしょう。

 

ただし、聖書でイエスは、自分が復活したことを疑っていた弟子のトマスに対して、

「根拠があるから」信じる、という姿勢について、少し批判的な見方をしていますので、神様的には、このオプションが一番好ましいのかもしれません。

 

「イエスは彼に言われた、『あなたはわたしを見たので信じたのか。見ないで信ずる者は、さいわいである』」 (ヨハネの書20章29節)

 

2. 「投げやりに信じる」

1と似ていますが、どちらかというと、「別に間違っていたところで失うものはないし」と、「とりあえず」的に信じる方もいるのかなと思います。少しドライな感じですね。

悪くはないとは思いますが、信仰(結婚)生活を、楽しむことは、できないと思います…。

 

3. 「信じられるから信じる」

反対意見や、疑問に対して、積極的な態度を示し、分からないこともあるけども、トータルで信じられる、と判断して信じる方もいると思います。

神の目からすると、好ましくないのかもしれませんが、私はこのほどほどに懐疑的な姿勢、というのが一番健康的なのではないかなと思います。

 

 

最後に、「どうして信じられるのか」という問いをかける方に対しては、

えてして、すでに凝り固まった考え方をしている方が多いように感じますので、

ぜひ、両側の立場に立って物事を見ていただきたいです。

 

Aの立場が快適だから、常識だから、ではなく、

Bの立場の人はこういった考え方をしているんだ、と。

 

最終的に、どちらの立場に落ち着くかは別として、

今信じているものが、より確信へと近づいていくのではないかなと

思います。

 

今日は、ここで終わりにします。

 

ありがとうございました。