落ちないりんご Apple in the Air
木から離れたりんごは、地面に向かって落ちる。これは重力の法則だ。
では、その落ちてきたりんごを途中でキャッチしてみたらどうだろう。
当然、りんごは地面に到達することはない。
これは、重力の法則を侵害していることになるだろうか。
答えはノー。
ただし、もしこのりんごを掴む手が、透明であったり、
もしくは、りんごの木が柵か何かで囲まれていて、りんごの落ちる瞬間と、
りんごが地面に落ちなかったことだけを見ると、
多くの人にとってはびっくりする結果となるだろう。
「途中で一体何が起こっているのだ」
「りんごが地面に落ちないのはおかしい!」
私は、神の奇跡について考えるときに、このような考え方をする。
奇跡とは、神が自ら創造した自然法則に介入した瞬間の出来事である。
別に自然法則に矛盾しているのではなく、ただたんに、神が創ったその法則 (ここでは重力) に、神自身が何かのきっかけで「よっこいしょ」と、手を伸ばしている (介入) に過ぎないと。
・モーセが海を二つに割るのも、
・エジプトで、全地が闇に覆われるのも、
・イエスが嵐を叱ってそれを沈めたのも、
・イエスが三日後に、死から蘇ったのも、
もともと、海、闇 (=光)、嵐と、それらを伴う環境と法則を創ったのは神であり、
それを「いじること」は、いわば神にとってできて当たり前のことであると感じる。
大人であれば*、お化け屋敷に入って宙に浮かぶ火の玉を見たところで、自然法則を無視していると考える人はいないだろう。後ろに「仕掛け人」がいるのが明白であり、お化け屋敷自体が「作られたもの」であることが明白なためだ。
(*ただし、子供にとっては、仕掛け人や、火の玉をぶら下げている透明なロープなどの存在を把握しきれていないため、火の玉を見た際に理解を超えたものとして、恐怖心を感じるのではないだろか)
この世界はどうだろう。聖書では、神が7日間で全てを創造されたとある。言い換えれば、『地球屋敷』を創造された。その中に存在する火も、重力も、水も、私たちが目に見えている物/見えていないもの全ての素材を創造された。
その視点に立った際には、むしろ神が重力や火を自由に操れないことの方が、違和感を感じるのではないだろうか。「え、自分で作ったんじゃないの?」と。
神を前提とする人にとっては、奇跡と聞いても、「まあそうだよね。全然あるある。」となりえるのではないだろうか。
逆に、自然法則を作った神の立場に立たない際には、このような現象は自然法則に矛盾したものであり、人知を超えたものであり、トリックや錯覚であると認知 (帰属) してしまうのであろう。
このような認識を持った時、問うべき問題は、『奇跡は存在するかどうか』ではなく、『神は存在するかどうか』ではないだろうか。
「確かに、もし、神が自然法則を創造したのであれば、その法則自体に介入することは十分可能である」と。
ノアの箱舟の時代のように、雨が連続で何十日間も降り続けても、りんごが途中で落下するのをやめて、どこかに逆に飛んで行っても、4匹しかなかった魚が分裂して50匹になったとしても。別に驚くべきことではないのだと。。。
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皆さんこんにちは、NYで駐在のサラリーマンをしているコトワドです。
もともとは神を疑う存在で、今でも常にクリティカルシンキングを持って神を見つめています。
今回のブログでは、「神の創造と、全能性」を前提とした際には、奇跡それ自体は、もはや障壁ではないとお話させていただきました。今後も、神を見つめる中で感じた、様々なトピックについて取り上げていくことができればと思います。
このブログの目的の一つは、最後の問いであげた「もし」を探求することであり、今後も、私自身が学びつつも、皆さんに発信していくことができればと思います。
最後に、
なんだかんだ言いまして、りんごが空を飛んで自分に向かってきたら驚くとは思いますが、同時に「やっぱりね(フフフ)」と思えるような心の準備は、常にしておきたいなと感じる今日この頃です。
最後まで読んでいただいてありがとうございました。