健全な自尊心とは Healthy Self-esteem

 

「早起きに成功して、スキルアップのための読書をする」

 

「定期的に筋トレを行い、自分の健康管理や見た目に気を遣う」

 

「仕事で良い結果を出して上司から良い評価を得る、昇進につながる」

 

どれも、自分にとって、非常に気持ちが良い。自分のことが誇らしくなり、肯定的な気分を持つことができる。

 

もちろん、ポジティブな日ばかりが続くことはなく、日によっては落ちこんだり、自分に対して否定的な思いを感じることもたくさんある。

 

しかし、自分の願いとしては、少しでも多くの肯定感を感じられるように、日々を努力して過ごしていくことではないか。それが人間の根源的な欲求である。

 

そのようなモチベーションを持って日々を送り、毎日を走るように生きている中でふと気が付く。自分自身に対する肯定感が、他者からの評価や、自分自身の行動によって測られていることに。

 

同時に、気づく。自分が他者を見るときも、同様の尺度を用いていることに。

 

「Aさんはすごい。会議中にしっかりと発言して、周りを説得してプロジェクトを成功に向かわせている」

 

「Bさんは少し。。。いつも遅刻するし、体型も少しだらしないし、ちょっと距離を置きたい」

 

...

 

自分は自分のことを優しい人間だと思って生きてきた。

そして、自分自身にもっと自信を持ちたくて、大学生のある時、様々な努力をしてここまで来ることができた。

自分自身の努力や成果に裏付けされた、ある程度の自分に対する自信も持つことができた。

 

しかし、その自信は日々の生活の中で、達成/不達成の基準によって上昇と下降を繰り返す、不安定な自信だ。

 

同時に、自分は冷酷な人間になった。表面的には笑顔で相手に接し、友好的にふるまいを行うが、相手が「すごく」ないと感じた際には、心の中では勝手に相手を下に見て、Bad のラベルを張っているのだから。

 

この生き方は間違っているのか。

 

そうはいうものの、それが当たり前ではないか。多くの人は自分自身や相手を見る際に、自然と相手の行動や、達成したことを見て評価するのは当たり前ではないのか。それで社会が回っているのではないか。

 

...

 

しかし、ある価値観が真実であるということと、自分がその価値観に従うかどうかは、別の軸である。

 

例えば、世界は基本的には資本主義であり、お金を多く持っている人が成功者であるとみなされる。それが基本的な価値観である。

 

しかし、その価値観から外れ、あえてたくさんのお金を持たずに、家族との時間を過ごしたり、または、副業の代わりに、ボランティア活動を積極的に行う人たちの存在もある。メインストリームを歩く人達には、意味が分からない行為だろう。

 

では、自分はどうだろう。。。

 

 

 

人生とは、選択である。

 

どの価値観を選択して生きていきたいのか。世の中が当たり前だとみなしている判断基準に即していくのか、哲学者や神学者のように、独自の判断基準に従い、価値観を気づいていくのか。。。

 

...

 

いろいろと試行錯誤した末、私は、人間が独自に作り上げてきた価値観ではなく、聖書と、聖書の神が作り上げた価値観に従うことにした。

 

「聖書や聖書の神の自体、人間が作ったものではないか」

 

あなたはそう言うでしょうか。それもあなたの価値観でしょう。そしてそれは、日々の感覚や、科学的な証拠に裏打ちされた、立派な価値観であると思います。

 

実際に、日本人の99%は、神や超越した存在はいるかもしれないと思いつつも、聖書自体はただの物語であると感じているでしょう。ギリシャ神話や、古事記と同様、人間が作成した宗教であり、真理にはなり得ないと。。。

 

自分自身も以前はそのように感じていたので、よくわかります。

 

・「宗教」て何だか怖い。頭が悪いか、心が弱っている人がすがるように信じるものでしょう。

・必要心によって、人間が作り上げたものでしょう。

・仮にそれが正しいとしても、その正しさによって多くの戦争や紛争が起きているのだから、そんなものを自分は信じたくない。。。

 

その気持ちはすごく尊重できる。

 

ただし、ここでも2つの軸を用意する必要がある。自分が見ている「現実」と「真実」は別の尺度である。

 

キリスト教によってもたらされたネガティブな面はたくさんある。しかし、だからといってそれが真実ではないとは、誰も言うことができない。

 

日常生活の感覚や推論から、真実を導き出すことは難しい。特にそれが、すべての「始まり」に関するものであればあるほど。

 

これは、信仰の問題である。

 

「神を信じること」これはもちろん信仰だ。

 

「神を信じないこと」も、同様に、神がいないと信じる点において、信仰であると思う。

 

なぜ、自分は日本人のメインストリームに反した聖書の神の存在を選択するのか、この点は、次回のブログにて記述したい。

 

...

 

話を戻すと、自分は、神を信じることにより、それまで持っていた物差しを手放すことにした。

 

そして、自分が今持とうとしている物差しは、「すべての人間は神によって創造され、それ故に存在それ自体が尊いものである」というものである。

 

自分や相手が行った行動ではない、人間の存在自体が、神に愛されて創造され、それ故に自分自身も積極的に愛していきたい存在である、ということ。

 

もちろん、だからと言って行動自体が無意味であるわけではない。

 

実際に、自分は、自分自身を高めるための努力は今後も行っていきたい。しかし、それは、自分自身が気持ちよくなるための努力ではなく、あくまでの神にもらった恵みを、精一杯生かし、最終的には神の栄光を示すための努力である。

 

もし人から褒められることがあれば自分はこう言いたい。

 

「ありがとう、でも、神のおかげだよ」

 

...

 

違和感を感じるでしょうか。

 

でも、個人的なレベルでは、真実だと思う。

自分はもともと、自分自身に誇れるものは本当に何もなかった。

容姿は普通、勉強やスポーツが特別にできるわけではなく、友人とのコミュニケーションも別に優れおらず、すべてが月並みな存在であった。

 

しかし、大学生の時、留学先にて神の存在に知ることができ、もちろん全てが信じれたわけではなく、納得感よりも疑問の方が多かったが、自分はその価値観を「実験的」に当てはめてみることにした。10年くらい経った今、その実験は今も続いているが、神の存在は上昇と下降を繰り返しつつも、少しづつ身近な存在になっている。

 

そして客観的に変わったと言えることは、自分自身と、周りの環境が良い方向に変化したことだ。

 

・自分は優しくなれた。

・周りの人とのコミュニケーションが改善した。

・やりたい仕事に就くことができた。

 

あなたは言うかもしれない。

 

「これらはクリスチャンになったから達成できたことなのか。他の要因があるのではないか」

 

もちろんそうかもしれない。ただし言えることは、クリスチャンになる前の自分と、なった後の自分を比較した際に、なった後の自分の方が好きな存在であるということ。

 

だから、自分は自分自身や他者を見る際に、自分自身や世の中の基準ではなく、神の基準を持っていたい。

 

そしてその基準とは、「すべての存在(隣人)が愛すべき存在である」ということだ。「目の前の人を愛すること」は、神を愛することに加えて、聖書の中の一番大切な個所である。

 

(そしてクリスチャンが一番忘れがちな部分でもある(笑))

 

だから、自分は、神が自分にもたらした恩義を忘れたくない。

 

神の子であるイエスは自分のために一度死に、よみがえったこと※。

 

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※注意書

蘇りとは、私たちが「科学的」だとか「常識」だとか言っていることを超越した行為である。もともとの存在が超越した設定なので、超越したことが起こっても、別に不思議ではないと感じていただけますでしょうか。

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そのよみがえりに自分自身を重ね、過去の自分は脱ぎ捨て、今日も一日、神の存在を意識して生きていきたい。

 

自分や宇宙や、創造や、破壊や、法則を超越した存在が自分を愛してくれていること、

 

その温かみを自分自身への肯定感に変えて。

 

 

 

 

 

 

Kotowadoは、

・毎朝、早起きをして努力をしている優れた存在ではない、

・筋トレを定期的に行い、自己管理ができている努力家ではない

・仕事のパフォーマンスが優れ、上司からも信頼される人間ではない

 

ただの、一人の卑しい人間であり、卑しくも、神の愛と恵みによってここまで来ることができた。そういう存在なのである。

 

さあ、目の前の人を愛そう。