『主語』 "It's not about me."

 

「私の人生の主人公は私だ。」

という言葉は、本や、ドラマや、ある種のセミナーなどでよく耳にします。

 

私も好きな言葉です。

 

生きる中で、環境が私たちに与える影響は非常に大きいですが、

その中で流されるのではなく、自分の意思を尊重していこうという、

自立的な信念が感じられます。

 

「あの人のことが好きだけど、嫌がられるかもしれないから告白しないでおこう」や、

「今の仕事が気に入っておらず、転職したいけど失敗したらどうしよう」、

「留学したいけど、英語力がなく、勇気がでない…」など、

 

人生で、どちらの道に進むべきか分からない際に、

自分が本当に向かいたい方向へと導いてくれる、

力強い言葉だと思います。

 

 

その一方で、クリスチャンとしての私は、この言葉に

惑わされることがあります。

 

恐らく、この言葉を発する人は、そのような意図をもってはいないと思うのですが、

私は、この種の発言を聞くために、自然と以下のようなメッセージを受け取ってしまいます。

 

「私」が大切であるということ。

 

「私は、幸せにならなければいけない」

「私は、出世しなければいけない」

「私は、成功しなければいけない」

 

 

自分自身を人生の主人公におくことで、

私は、私自身に責任を課してしまうように思います。

 

そしてそれは、

時には重い生き方ではないでしょうか。

 

 

私は、時々考えることがあるのですが、

世の中の不幸の多くは、「私」が中心になってしまうことで

起こるのではないでしょうか。

 

例えば、

・「私が」仕事終わりにゆっくりしたいから、

家に帰ってきたときにご飯が用意されていなかったら怒ったり、

・「私が」周りの人から尊敬されたいから、

部下や同僚がきちんと仕事をしてくれないといらいらしたり、など。

 

 

「私が気持ちよくありたい」という動機があるからこそ、

気持ちよくなれない現状に直面したときに、

不満が生まれるのではないでしょうか。

 

 

少し極端な考え方ですが、

「私なんてどうだっていい」と思えば、

少なくとも私たちが感じているいらいらの多くは

解消されるのではないでしょうか。

 

そして、逆説的ではありますが、

「自分なんてどうだって良い」と思えることで、

他者に対する優しさや思いやりがうまれ、

結果として、静的な、自己満足感がうまれると思います。

 

 

それは難しいと、

あなたは言いますか。

 

 

自分の人生から、「自分」を抜いたら、何が残るのかと。

周りの人を大切にしながら生きることはできても、

自分自身は抜け殻で、さみしい生き方ではないかと…。

 

 

自分の人生の主人公は、一体だれか。。。

 

 

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みなさんこんにちは、

コトワドです。

 

私は、クリスチャンです。

エスキリストと、神が、この世界を創造したと信じています。

 

実際にその瞬間を見たわけではありません。

しかし、それが書かれている聖書の信頼性を信じています。

聖書から離れたところでも、自分自身の経験や、

日々の着想の中で、聖書に書かれていることは本当なんじゃないかなと、

思っています。

 

そんなクリスチャンである私は、よく、以下のように祈ることがあります。

 

例えば、

仕事で大変なプロジェクトがあった際に、

「神様、私は今、大変不安です。私を守ってください、導いてください」や

日々の生活の中でむなしさを感じた際に、

「神様、私は今、満たされていないと感じます。あなたの愛で、私を満たしてください、私を幸せにしてください」、

 

などなど。

 

しかし、このような祈りは、

少し、的外れな祈りであるように感じます。

 

 

なぜなら、祈りの主語が「」になっているからです。

 

クリスチャンは、神が、この世界の中心であると考え、

神を賛美することが、人生の目的であると捉えています。

 

 

しかし、神が中心であると言いながらも、祈りの中では、

「私」ばかりを主語においてしまうのは、

本質を見誤っているのではないでしょうか。

 

 

言い換えると、

神を、自分が幸せを感じるための「手段」に捉えた考え方で、

祈っているのではないでしょうか。

 

確かに、神は私たちを愛していて、

神は、私たちに必要なものを与えてくれると聖書には書かれています。

 

『求めよ、さらば与えられん』と。

 

しかし、その聖書個所だけを意識して、

「神様、これちょーだい。後あれも。」といった態度を示すのは、

神を愛しているのではなく、

神がくれるものを愛している、という態度でしょう。

 

 

そしてそれは、少し偽善的な態度でもあると思います。

 

 

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冒頭の問いに戻ります。

 

私の人生から、私を抜いたら何が残るのか。

 

私は、神のみを残したい。

 

では、神を残すとは、一体何を意味するのか。

 

それは、神が、聖書の中で

「みなさんこれをしましょうね」といったことをすることでしょう。

 

いろいろとあるのですが、

実は、「これがとっても大切!」というのは二つしかありません。

 

それは、

(1) 神を信じ、愛すること。

(2) 隣人を、愛すること。

 

この二つだけです。

 

主語(目的語)は、「神」と「隣人」です。

 

 

私は、神がこの世界を創ったと信じる以上、

人生の主人公も、神であると信じたい。

 

そして、

自分が満足感を感じるために神を信じるのでも、祈るのでもなく、

 

ただ、「私」という自己を脱却したところにある満足感、

もしくは安心感の上に、

 

ただ ぷかぷかと浮かんでいたい。

 

 

みなさんは、何を主語におきますか。