対立 Conflict

「私は、人に取り入ろうとしているのか、それとも、神に取り入ろうとしているのか。もし、何とかして人に気に入られようとしているのであれば、私は、キリストの僕ではありません (ガラテヤ書 1章10節)

 

「私が来たのは、地上に平和をもたらすためではない。剣をもたらすために来たのだ。私は、敵対させるために来たからである。 (マタイによる福音書10章34節)

 

 

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美味しいものを食べる。

 

ああ幸せ。

 

きれいで大きな家に住む。

 

とっても幸せ。

 

好きな友達に囲まれる。大きな大会で優勝する。仕事で上司から認められる。

 

心が満たされる。

 

しかし、そこに神がいないとすれば?

 

・・・

 

表面的な満足感の下に潜む不安。

あるいはもしかすると、その不安には気づかないかもしれない。

気づきたくはないかもしれない。

 

 

逆のパターンはどうだろう。

 

料理は美味しくない、家は狭くて汚れている。

友達は少なく、人からもなかなか認めてもらえない。

それでも、神を意識し、神を感じ、神とともにいるという感覚。

 

ここには、希望があると。

 

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一体、何の話をしているのか。

 

不安とか、希望とか、自分をどきっとさせるようなことばかり言って、

信者たちは、そうでない人たちを煽ることしか考えていないのか。

 

自分を不安にさせるのは、神ではなく、信者の妄想ではないか。

 

 

いいえ。

どちらかというと、今回のブログは、自分自身に向けて書いている。

 

ただし、不安や、希望といった感情は、現実のものだ。

信者でも、信者ではなくても感じる。

それが、普段の生活に根差しているのか、神に根差しているのか、

そこが大きな違いだ。

 

(いや、たとえ信者でなくても、「生」や「死」といったテーマを考えた際に感じる

漠然とした不安は、誰もが経験したことがあるでしょう。)

 

 

私たちは、目の前の生活ではなく、

目の前の生活の裏にいる存在に、目を向けている。

 

しかし、いくら「目の現実がすべてではない」と思ったところで、

どうしても目の前の美味しいものや、きれいな建物や、人間関係だって大切で、

それらを全く無視することは無い。

 

むしろ、信者であっても、

神の国を第一に求める」(マタイによる福音書6章33節)

ということは非常に難しい。

 

だからこそ、私にとっての信仰生活は、行ったり来たりだ。

 

希望を感じるときもあり、

不安を感じるときもあり、

それらに向かい合いたいときもあり、

それらに目をつぶりたくなることもあり、、、

 

 

信じたらそこがゴールではなく、

むしろ、信じてからの道のりが、日々の決断が、

本当のスタートになっているということもある。

 

この希望とか、不安などは、普段の生活で忘れることは非常に簡単なもの。

時々目をつぶりたくなるもの。

 

しかし、もしかしたら、人生において、

もっとも大切なものかもしれない。

 

 

If

 

 

何が正解で、何が間違いかは、その時が来るまでは分からない。

 

計算することはできる。

推測することはできる。

 

しかし、可能性は、いつだってフィフティフィフティ。

 

その50%に、私はかけると決めた。

 

50%だから、間違っているかもしれないけど。

 

50%の「希望」には、前提として「不安」が内包されているけど。

 

そういうものでしょう?

 

何かを信じるということは。

 

結婚でも、友情でも、何かの関係には、100%の確証などはなく、

ただ信じて、関係を構築していくだけだ。

 

 

神よ、私は、あなたを信じ、

あなたのことを第一に追い求めよう。

(神以外のこともほどほど大切にしつつ)

 

 

さあ、合っているのか、間違っているのか。

 

その解は、神のみぞ知る。