『死がもたらす新しい生』New life that death brings

人がそれまで持っていた考え方を捨てて、

新しい生き方を選択しようとする際に影響を与えるものには、

どんなものがあるでしょうか。

 

 

例えば、ある一冊の本との出会いや、一人の人との出会いは、

自分の人生に大きな影響を与える要因としてあるかもしれません。

 

私には、自分の人生に影響を与えた二人の人がいました。

 

一人は、高校時代の同級生です。

高校卒業後、一切合うことは無かったですが、facebookを通して、大学に進学して、企業インターンなども積極的に行い、非常に充実した毎日を送っていることはよく知っていました。

かたや当時、私は一年間の浪人時代を得て、そこそこのコンプレックスを抱えていた大学2年生。人生における目標なども特になく、充実した日々を送っているわけでもなかったです。

 

さえない自分と、充実した日々を送って周りからも応援してもらっている彼…

自分と彼とを比較しては、落ち込むような日々を送っていました。

 

そして、自分の中に妙な焦りのようなものがありました。

彼のようになりたい、自分ももっと高みに行きたい、そう願っていました。

 

自己啓発書や、ビジネス書をたくさん読んでいた「上昇志向」で、「意識高い系」の自分はきっと、自分にも、周りの人にも優しくなかったと思います。Facebookで、一方通行的に彼の行動を観察し、自分の満ち足りていない人生に焦りを覚え、自分は変わらなきゃ、前に進まなきゃと焦る日々は、続きました。

 

 

自分の人生に影響を与えた、もう一人の人に出会うまで。

 

その人の名前は、「イエス」と言いました。

 

 

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みなさんこんにちは、コトワドです。

寒い日が続いておりますが、皆さんはお元気でしょうか。

 

今回のブログは、前回の記事とも重なる部分が少しあるのですが、

エスとは誰か、について、少し深堀していきたいと思います。

 

さて、冒頭では、私が高校時代の同級生に対して抱いていた、一方通行的な関係を紹介させていただきました。

今度は、あなたに関係するお話をしたいと思います。

 

 

私は、あなたのために、死んだ人を知っています。

 

それも、苦しみながら、人々から蔑まれながら。

その人は、何も悪いことをしていないのに、です。

 

不思議ですよね。

 

自分が過去に何かダメなことをして、見返りとして自分が苦しむならともかく、

その人は、あなたのために、あなたの知らないところで、あなたの生まれる前に、死んだのです。

 

その不思議な人の名前が、イエスです。 

前回のブログでは、交通事故の例え話で紹介させていただきましたね。

エスは、あなたがまだ赤ん坊のときに、車から轢かれそうなあなたを救うために、身代わりの死を経験しました。

 

 そもそも、「なぜイエスが死ぬ必要があったのか」については、次のブログで書かせていただきまして、ここでは、読者の皆さんには、「イエスと言われる人が、あなたのために死んだ」という出来事を、少し吟味していただきたいです。

  

 

実感が少しわきにくいかもしれませんが、もし本当だったとしたら、

それって、すごいことだと思いませんか。

 

 

クリスチャンは、それが本当に起きたと信じています。

エスが本当に、自分たちのために死んでくれたのだと。

 

2,000年も前の出来事をどうして信じることができるのか。

 

人によって、答えは違うと思いますが、私個人の意見を、客観的な立場と、主観的な立場からお伝えさせていただきます。

 

客観的な立場として、何よりもまず、「聖書に書かれているから」とお答えしたいところですが、

そうすると、「どうして聖書を信じることができるのか」と、皆さんはおそらくお思いになりますよね。笑

 

ですので、別の理由として、聖書の記述は、科学者たちが発見したデータに基づいているから、とお答えします。

 

聖書は、神の書であると同時に、人類の歴史書でもあります。ですから、聖書には、多くの出来事が書かれています。イエスという人がいたということ、洪水が起こったということ、〇〇という人が□□ということをしたということ、などなど。

 

例えば、イエスが実在したという事実は、聖書以外の文献からも確証されており、そのことは、クリスチャン、非クリスチャンの研究者を問わず、 否定することは難しいでしょう。

 

「聖書 科学 矛盾」などと、好きなキーワードでインターネットで検索してみてください。

「聖書 信頼性」などのキーワードでも良いかもしれません。

 

次に、主観的な理由になります。

 

私は、「もしイエスが愛の神でなければ、誰が愛の神なのか」と、自分に問います。

 

・イエスは、当時、病の人々を、奇跡で癒しました。哀れみや、慰めの感情をもって。

マザーテレサのように、人々のことを愛し尽くしました。イエスは何よりも、優しかったのです。

・イエス自身は、何も悪いことをしなかったのに、この世のすべての罪を背負い、十字架にかかろうとしました。私やあなたのことを救うために。

・罪びとである私たちは、「イエスよ、私はあなたのことを知らない。罪なんか何もない」と言います。罪のないイエスは言います。「私はあなたのことを知っている。愛している。あなたの罪は私が背負おう。」

 

ここに、はっきりと、私たちと、イエスとの差が表れているのではないでしょうか。

罪がないと、言い逃れする罪人の私たちと、罪がないのに、進んで処刑されにいく神の子の姿と。

 

そして、イエスは、磔にされた十字架の上で、このように言いました。

「父よ。彼らをお赦しください。自分が何をしているか知らないのです」(ルカ23章34節)

 

エスが、磔にされ、血まみれになり、嘲笑いされ、意識がもうろうとしている中で祈ったのは、「今まさに自分を殺そうとしている人たちを許してください。彼らは何も、知らないのだから。」という祈りだったのです。

 

…衝撃でした。

 

殺されているときに、このような祈りをあげることは、人間には可能でしょうか。

 

 目には目をで、自分を傷つける人には仕返しを願うのが、普通ではないでしょうか。 

 

 

みなさんはどうでしょうか。

 

私は、この人が神でなくて、誰が神だろう…と、

この人こそ、神の人格を所有するに足る方なのでは、と思い始めました。

 

 

私は、基本的には懐疑主義者です。

何かを信じる際に、客観的な事実がなければ、それを信じることはできません。

(盲目的に何かを信じる、ということは、何よりも危険なことだと思います。)

 

しかし、イエスが本当に神かどうか、というのに関係なくとも、イエスが見せた、人々への愛や、哀れみの姿勢は、否定することはできませんでした。

 

 

 

私が経験したことのない、

誰かに示したこともない、

存在しうることすら知らなかった愛。

 

神の愛を知り、衝撃を受け、私の生き方は変わりました。

 

 

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みなさんが道を歩いていて、強盗につかまり、何かを盗まれそうになった際に誰かが助けてくれたら、ありがとうと、その人にお伝えしますよね。

 

もし、自分が強盗につかまる前に、あなたは助けられていたとしたらでしょう。

あなたにはあまり、助けられたという実感がわいていません。

それでもあなたはその見知らぬ人に、ありがとうと、お伝えしますか。

 

 

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さて、今回は、二つの一方通行的な関係を紹介させていただきました。

 

羨み、自分もそのようでありたいと目指した同級生の彼と、

それまで、存在しうることさえ知らなかった愛を私に抱いてくれたイエス

 

私は、今でも、どちらの存在も尊敬しています。

しかし、彼とイエスとでは、尊敬の種類が少し、違うのです。

 

みなさんは、イエスの愛に対して、どう思いますか。

 

この人こそ神だ!と思いますか。

それとも、イエスはただのいかれた偽善者だと、思いますか。

 

それとも、この質問に答えたくないがために、

エスが存在したという前提を疑い、質問をかわしますか。

 

それとも、将来、時間ができたときにこの質問についてじっくり考える、

とお答えしますか。

 

 

次回は、そもそもなぜ、イエスが私たちを救うために死ななければならなかったのかについて、書いていきますね。

 

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