『結局は、誰のせい?』 Who's Fault?

みなさん、こんにちは。

コトワドです。

 

テレビをつけると、いろんなニュースが流れていますね。

そして、ほとんどのニュースは、悪いニュースのことのように感じませんでしょうか。

もしかしたら、世の中はどんどん悪い方向に向かっているのではないか、と感じているのではないでしょうか。

 

世の中には、確かに、「悪」は存在します。

 

私が説明するまでもないと思います。

 

それでは、その悪は、どこから来ているのか。

 

人間から?それとも、環境によって生まれるのか?

まさか、神が…??

 

それでは、お話していきましょう。

 

 

前回のブログでは、

私たちクリスチャンが、救世主/主と呼ぶ (英語ではMessiah/Lord)、

エスの一方的な愛について書かせて頂きました。

 

読者の方の中には、読みながらもんもんとした方もいらっしゃるかもしれませんね。

それは、「私たちは罪に犯され、救われる必要がある」という前提で書かれていたからです。

 

私たちが罪びとであるから、イエスは身代わりに死ぬ必要があったわけであり、

交通事故の例なども出しましたが、そもそもなぜ、私たちは、死にそうになっていたのでしょうか。

なぜ、イエスを必要とするのでしょうか。

 

 

 

この点に関して、少し横にずれます。

 

別にキリスト教に限った話ではありませんが、

「自分は救われる必要がある」や、「自分は罪びとである」

という、多くの宗教が持っている前提に対して、違和感を覚える方が、ほとんどではないでしょうか。

 

それは、特に自分は悪いことをしたわけではないのに、「あなたは罪びとである」や「悔い改める必要がある」といった、信者による、ある種の上から目線的な?態度に抵抗があるからではないでしょうか。

 

確かに、自ら進んでこの世に生まれてきたわけではないのに、

生まれた時点で罪びとが確定していることは、ある意味で罰ゲームのように

感じられるかもしれませんね。

 

宗教の受け入れにくさは、この辺にあるのではないでしょうか。

 

それには、理由があります。

 

聖書的な内容にふれつつ、説明させていただきます。

 

 

まず、聖書によると、人類の祖先として、アダムとエバが神によって創造されました。

エデンの園と言われる場所が舞台です。そしてその園には、「善悪の知識の木」という木があり、神は、その木からとれる実は食べてはいけない、と言われました。

しかし、好奇心に負けたアダムとエバは、蛇の誘惑を受けて、その果実を食べてしまったのです。

 

その時です。

 

アダムとエバの違犯により、彼らと、その子孫(=私たち)と、神との間には、

隔絶がおきてしまいました。

この隔絶のことを、聖書では「敵意」と呼んでいます。

そして、この敵意のゆえに、 私たちは、神とは離れた存在となってしまいました。

 

神と天国にはもう、到達できなくなってしまったのです。

 

そして、イエスキリストという方が、その隔絶を埋めるために、自ら十字架にかかって死んだ、ということです。

 

ざっくりとしたイメージとしては、

自分と神(=天国) とは、アダムとイブのせいで、離れた状態になってしまい、そのギャップを埋めるために必要なのが、イエスキリスト、という感じです。

 

 

 

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人間と神が、イエスによってつながるイメージ

 

 聖書の該当する個所を、三か所開いてみましょう。

 

そのころは、キリストとかかわりなく、イスラエルの民に属さず、約束を含む契約と関係なく、この世の中で希望を持たず、神を知らずに生きていました。しかしあなたがたは、以前は遠く離れていたが、今や、キリスト・イエスにおいて、キリストの血によって近いものとなったのです。実に、キリストは私たちの平和であります。二つのものを一つにし、ご自分の肉において、敵意という隔ての壁を取り壊し、…(中略)…平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。

 キリストはおいでになり、遠く離れているあなたがたにも、また、近くにいる人々にも、平和の福音を告げ知らせられました。それで、このキリストによって、私たち両方のものが一つの霊に結ばれて、御父に近づくことができるのです。(エフェソの手紙2章12-18節)

 

キリストも、罪のためにただ一度苦しまれました。正しい方が、正しくない者たちのために苦しまれたのです。あなたがたを神のもとへ導くためです。(第一ペトロの手紙3章18節)

 

 

しかし、わたしたちがまだ罪びとであったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対する愛を示されました。(ローマの手紙5章8節)

 

 

簡単にまとめますね。

 

1. アダムとイブのせいで、神と人類との間に隔絶が生まれ、

2. それを埋める手段として神の子であるイエスが来て、人々によって拷問され、十字架の上で私たちの罪とともに死に、

3. イエスを信じ、イエスの死に自分自身の罪を重ねることで、私たちは神に近づき、天国へ行くことができる

 

ざっくりとですが以上が、私たちクリスチャンが信じている概念になります。

本当は、「イエスが三日後に死から復活したこと」なども非常に重要な要素となってきますが、そこは割愛させていただきます。

 

ここまで聞くと、

 

「じゃあ結局はアダムとエバのせいってことでしょ?」

とお思いになるでしょうか。

 

 

………

 

 

アダムと、エバが神に背き、禁断の果実を食べたせいで、

世界には罪が忍び込み、私たちが罪びととされたわけですからね…。

 

アダムとエバが神に従順に従っていたら、

今の世の中に蔓延している不条理さや、悪、悲しみなども、なかったでしょう。

 

しかし、

 

誰に責任の所存があるのかについては、

私は、フィフティフィフティだと思うのです。

 

私の個人的な回答で、牧師の方や、神学者の方のご意見は分からないのですが、

罪を犯したのは、アダムとエバで、自分には関係ないと切り捨てることは、私にはできないのです。

 

なぜなら、私の中には、アダムとエバに共感してしまう部分があるからです。

「食べたらだめだとわかっているのに食べてしまう」

 

 

みなさんもそうではないでしょうか。

 

したら良いとはわかっているのにできないことや、

したら良くないのに、楽だからしてしまう、気持ちよくなるからしてしまう、

といったことは、誰でもあるのではないでしょうか。

 

相手と喧嘩して、自分が気持ちよくなりたいがために、言う必要のないことを言ってしまったり、

満員電車で人とぶつかり、なんて自分勝手な人間なんだと相手を罵倒したり、

誰も見てないから、ちょっとくらいいいやとゴミを道に捨てたり、、、

 

あなたは、アダムとエバの弱さを、あなた自身と完全に切り離すことができますか?

 

あなたは、自分自身が清く、正しい人間だと言い切ることができますか?

 

 

あと一つ、大切な点を挙げさせてください。

 

一つには、「神の基準」です。

自分がどのくらい正しいのか、を自分で判断するのも結構ですが、人間の判断や価値観なんて、基準があいまいで、自分に対しては甘く、人に対しては厳しくなりがちではないでしょうか。

 

聖書では、どのような行為を「正しい行為 (=義)」、としていて、

どのような行為を「罪 (=不義)」としているのでしょうか。

 

マタイによる福音書の5章を開くと、

「腹を立ててはならない」、「姦淫してはならない」、「復讐してはならない」や、有名な個所である「敵を愛しなさい」など、

さまざまな、イエス自身による言葉が語られています。

 

もし、聖書をお持ちでしたら、実際に読んでいただきたいのですが、

お持ちでなければ、インターネットで検索してみてください。

 

そして、自分自身に聞いてみて下さい。

 

「私には、イエスの言っていることが実行できるか」と。

 

そして、できれば、実行してみてください。

 

エスの価値観に立った際に、自分が神の基準からどれだけ遠く離れているかを感じることができると思います。

 

聖書を少し引用してみましょう。

 

人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。(ローマの手紙3章23, 24節)

 

次の個所では、このような自分の罪、もしくは、罪への偏向性を認めたたくがない故に、神に近づくことを恐れる人間の姿勢も、聖書には書かれています。

光とは、イエスのことを指しています。

 

光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。...(中略)...悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。しかし、真理を行う者は、光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために。(ヨハネによる福音書3章19-21章)

 

以上の点を踏まえますと、

 

人間と、神の間に壁があるのは、

1.アダムとエバが、最初の罪を犯してしまったから。

2.私も含め、人間には、神の正しさの基準には到達することができないから。

 

そして、

1と2の壁を克服するために、イエスが地上に降りてきて、十字架にかかり、

私たちの罪とともに死んで、三日目に蘇られた、とされます。

 

そして、「三日目の蘇り」は、ただ単にイエスが復活した、ということではなく、

エスとともに、私たち一人一人も、クリスチャンとしての新しい生が誕生した、ことにも繋がっています。

 

だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。(第二コリントの手紙5章17節)

 

 

しかし、ここでも疑問は、

 

「そもそもアダムとエバを作ったのも神であり、その神が作ったアダムとエバが間違った選択をした責任は、神にもあるのではないか?」

 

例えば、親の仕事の一つには子育てがありますが、

子どもが将来、何か犯罪などを犯した際に、親の責任も多生は問われるべきではないでしょうか。

子どもを育てたのは親なのですから、子どもは子ども、親は親と、区別し、責任の所在を明確に分けるのは、少し違うと思いませんか?

 

クリスチャンの方は、どう思われますか?

 

……。

 

これは、個人的には分かりません。

 

なぜなら、神の計画の話になるからです。

 

私に分かっていることは、

神はあえて、蛇がアダムとエバに誘惑するのを許し、果実を食べるのを許容したということ。神は、止めようと思えば、なんでも止められますから。

その結果として、私たちは罪びととなったが、同時に、独り子であるイエスを遣わし、その血をもって、私たちが再び天国に行く道を用意して下さったこと。そこには、愛とやさしさがあります。

 

私は神ではありません、ですから神の計画は分かりませんが、

何か大きな、ストーリーがあると感じるのです。

 

神は全能です。すべてのことをご存じです。

 

・神は、アダムとエバを作る前から、彼らが神を裏切ることを知っていました。

・神は、アダムとエバに「あの木の実を食べちゃだめだよ」と言っている瞬間にも、キリストを十字架に送るということを計画していました。

・神は、すべてが始まる前から、あなたが今、こうして私のブログを読んでくださっているということを知っていました。

 

「すべては神の計画である」

 

と一言で片づけてしまうとすっきりしますが、

今の世に存在している悪や、悲しみや不条理にも意味があるのでしょう。

それを、許容されているのは、神なのですから。

 

混沌とした世の中にも、ある場所には愛があります。喜びがあります。

この不完全な地上で、完全な天を感じる瞬間というのが、確かにあります。

 

ですから、

 

間違いを犯す羽目になったアダムとエバを作ったこと、

その子孫である私たちは、罪に犯された存在であり、

救済される必要があることと、

 

それに対して、腹を立てることは、間違ったことではないと思います。

ただし同時に、神はあなたを救う手段も用意してくれていること。

なぜなら神は、あなたを愛しているからということにも、

同じくらい考えてみると、フェアなのではないかなと思います。

 

それでは今日はここまでです。

 

読んで下さりありがとうございました。