(物語風) 『変えたい過去』Regret in the past is a drive for the future
みなさんこんにちは、
コトワドです。
昨日の夜は、久しぶりに眠ることができず、
もんもんとした時間を過ごしていました。
どうして、もんもんとしてしまっていたのか。
理由は、過去に対する後悔の念に苛まれていたからです。
その後悔の中身と、それに対する考察について、クリスチャンとしての立場から書いてみました。
いつもとは、スタイルがかなり違い、私の本来のブログの趣旨からはずれてしまいますので、お時間がある方のみ、読んでいただけたらと思います。
物語りなんて、今まで書いたことがなく、見苦しいところがあるかもしれませんが、ご容赦していただけたらと思います。
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「あなたには人生で後悔していることがたくさんあります。高校一年生の頃に戻りたいですか?私にはできないことはありません。あなたを、過去におくることができます。」
その日の夜、私には神の声が聞こえた。
スマホの位置をまさぐり、時計を見てみると1:10。
ベッドについたのが11:30くらいだから、多分2時間弱か。
眠れない夜は久しぶりだ。
その理由は明らかだった。失敗ばかりだった高校時代のことを思い出し、自責の念に駆られていたからだった。
その日は、久しぶりに高校時代の旧友に会った日だった。
同じ部活、同じクラスの友達で、友達作りが下手な自分にも、良く接してくれた友人だった。彼と別れた後、私は過去を懐かしく振り返るとともに、恥ずかしい過去の日々や、数々の後悔を苦々しく思い出していたのだった。
「戻りたい。」
私は神にそう答えた。
私には変えたい過去がたくさんあったからだ。
一生懸命打ち込まなかった部活。中途半端だった勉強。不器用で思いを伝えるのが下手だった(そもそも知らなかった)友人関係。もっと楽しみたかった恋愛関係。愛し方を知らなかった家族関係など…。
あげだしたらキリがないくらい。
ゲームと漫画とインターネットにエネルギーを大きく費やして、自分は自分の過去をどうしても肯定的に受け入れられないでいる。
今の知識のままで、今の技術のままで、過去にもどることができたら………。
自分はお菓子禁止でも、毎日筋トレ100回必須でも、東大合格条件でも、会う人全てに自分はクリスチャンと伝える条件でも、なんでも飲み込むだろう。それくらい今の自分に対しては自信があった。
そう、私は大学生の頃に留学して、一人の女性に出会ってから、良い意味で変わったという自覚があった。
自分の人生で唯一、やり直したくないことがあるとすれば(やり直す必要がないことがあるとすれば)、それは、彼女との関係だろう。彼女は私にいろんなことを教えてくれた。無私になること、神を信じること、神に頼り切ること…。自分に対して、常に不満足で、揺らいだ自己しかもっていなかったが、彼女に出会ってからの自分だけは、肯定的にとらえることができるようになった。彼女自身の姿を通して、私はイエスを見つけ、自分も彼女のようになりたいと、彼女の信じているものを信じたいと思うようになったのだ。そして、私はイエスに出会った。
もし私が過去に戻れたとしても、彼女にはまた会いたい。
また一緒に神について語り合い、勉強し、付き合い、結婚し、子供も作りたい。
私費留学でもワーホリでも何でも、絶対に彼女に会いに行くだろう。
『ああ、イエス様。どうか、全知全能のあなたの力で、私を高校一年生の初めの日まで戻してください。眠りから目が覚めたら、10年前の、故郷にいますように。代わりに私は何でもしますから。。。』
その日、私はその祈りを捧げながら、眠りについた。
しかし、起きても、私は社会人三年目のコトワドのまま。
隣には、妻になった彼女がいたままだった。
『どうしてですか神様。あなたには何でもできるのに。約束と違うじゃないですか…。』
後悔は、辛い。今の自分を苛む。
人によっては、「過去の失敗や、後悔があるから、今の自分がいるんだよ。」という人もいるだろう。それは正しいと思う。過去の過ちのおかげで、同じ過ちを犯さないように人は努力しようとし、変わろうとするのだろう。
しかし、過ちは無いに越したことがないのではないだろうか。
誰しも、人生は楽しみたいものである。幸せを感じたいものである。
私は、もっと勉強を頑張っていたら、もっと人間関係を大切にできていたら、今の人生がもっと楽しいものになっていたという確信がある。
だから、戻りたいんだ。
また、自己中心的な思いだけではなく、家族や友人にイエスの福音を広げたいという思いもある。
「しかし。」
自分はここで少し立ち止まる。現実に戻る。
楽しむことが人生において重要であるとすれば、もし過去に戻ることが不可能であるとすれば、自分は、どのようにこの後悔を、未来の幸福に利用していくことができるだろう?
自分が「やらなくて後悔していること」を、片っ端からやっていく他ないのではないだろうか。私は今27歳。今までの27年間に勝る、今後の72年間を生きていく他ないのではないだろうか。
私の後悔は、そのトップ3を挙げるとすれば、
① 一生懸命勉強しなかったこと
② 自己中心的で、不器用で、人にやさしくできなかったこと
③ テニスに一生懸命打ち込まなかったこと
だろう。
今は、学生ではない。なので、優先順位は変わってくると思うが、上記のような、「やらなくて後悔していること」を、「今、やりたいけどやっていないこと」にすり替えて、ベストを尽くしていくしかないのではないか。
それが唯一、未来の自分が苦悩して夜眠れなくなるのを防ぐ唯一の方法ではないか。
「そうだ。」
私はもう、人生を一瞬たりとも無駄にしたりしない。
無駄な行為は、もう十分にしてきたのだから。
じゃあ、今何をしよう?
自分は、今何をしたい?
(1). 会社で開かれているコンテストで優勝して、副賞の海外旅行をゲットしたい。
(2). 英語がもっとぺらぺらになりたい。TOEICで満点を取りたい。
(3). クリスチャンとして、夫として、人間として、一人一人の人を、神が愛した目の前の人たちを、もっとよく愛せるようになりたい。
この辺が大きなターゲットだろうか。
たくさんのことを一気にやるのは効率が落ちるっていうしね。
神様、今日、目が覚めたら、過去に戻ることはできなかったけど、代わりに、今何をすべきかが見えた気がするよ。
ありがとう。
神様、でもね、今でも、正直に言うと、過去に戻りたい気持ちはまだあります。
たくさんのチャンスを、逃してきたという自覚があるから。
失敗ばかりしてきたという自覚があるから。
正直にいうと、生きなおして、周りの人からちやほやされたいから。
でも、神様、あなたは私にこう言っている。
「コトワド、それでいいんだよ。私はあなたのことを愛している。あなたは私の子供だ。私は、完璧な子供をもとめているんじゃない。善い行いや悪い行いは、大事じゃないんだよ。大事なのは、自分の行いを悔い改め、私についてこようとする姿勢なんだ。」
ああ神よ。
私にはいろいろな後悔がありますが、あなたに背いた人生を歩んできたことこそ、あなたに気づくことができなかったことこそ、最大の過ちかもしれません。
今は、あなたの愛に留まっていたい。
いつでも、あなたのコトバに留まっていたい。
辛いときこそ、後悔の念に苛まわれるときこそ、私は感謝の歌をささげよう。
神よ、悪魔が私を誘惑し、間違った方向に誘惑しようとしたときこそ、あなたの歌を歌おう。
神よ、過去ではなくて、あなただけを見つめよう。
あなたが私に生を与えたもうた。あなたこそ、私が生きる理由。
神よ、私は、貴方たとともに、残りの人生を歩みたいです。
導いてください。
もう、後悔はしない。
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みなさんはどうですか。
多かれ少なかれ、人生において後悔はあると思います。
相手を傷つけてしまった些細な一言から、相手を死にやってしまったといった大きなものまで…。
キリスト教的な世界観では、人間は不完全という前提です。
失敗は、むしろ必然です。
だからこそ、神に頼る必要があるのです。完全な神を。
私は、自分の過去に対して後悔する中で、完璧な人生を歩みなおしたいという思いをもって、自分自身が神になろうとしていたのかもしれません。ある意味で。
そして、それは、傲慢さに他ならないかもしれません。
神よ、悔い改めます。
私を過去に戻さなかったことに感謝いたします。
読者のみなさんも、ここまでお読みくださってありがとうございました☆