信仰実験 Faith Experiment

『信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。』

ヘブライ人への手紙11章1-3節)

 

みなさん、こんにちは。

コトワドです。

前回のブログでは、人は、信じられないから信じないのではなく、

信じたくないから信じないことがある、ということを書きました。

 

今回はその続きで、人の信仰について、書いていきたいと思います。

 

………

 

私がキリスト教について初めて考察したのは、

私が大学受験中に母が進めてくれた小説『塩狩峠』(三浦綾子作)がきっかけでした。

『良い本だから』と勧めてくれたのを覚えています。

 

この本は、1909年(明治42年)2月28日に発生した鉄道事故の実話を元にしていて、主人公の永野信夫が、婚約者がいるにも関わらず、多数の乗客の命を救うため自らを犠牲にした物語です。

永野は、愛と信仰を貫きとおしたクリスチャンでした。

 

母はもちろんクリスチャンではありませんでしたが、小説をよく読み、おすすめのものはときたま私にも紹介してくれることがあったのです。

最初は、キリスト教に関する本とは知らずに読み始めましたが、ストーリーとして面白く、主人公の誠実さや、そこに描かれている愛の美しさに打たれ、衝撃を受けたのを覚えています。

読後に、涙が流れ出てきた経験は、初めての経験だったと思います。

 

感動で、涙がでつつも、読み終えて心から出てきた感情は、憤りでした。

「他の人を救うためとは言え、待っている人がいたのに自殺するなんて、主人公は自分勝手だ」

「婚約者のことを待ち続けて、やっと幸せになるはずだったのに、死ぬなんて…。他の選択肢もあったのではないか」

私は、あんなにも立派な主人公が死んでしまったショックを、怒りに変えて、母に文句したのを覚えています。

同時に、「クリスチャンを増やそうという意図をもって、作者はこの小説を書いたんだ!」と作者に対してなぜか攻撃したのも覚えています。

キリスト教を理解していなかった私は、それくらい混乱して、沸きでる感情をどう処理して良いかわからなかったのでしょう。

 

母は、はいはいとなだめてくれました。

 

………

 

この主人公に限らず、信仰のゆえに生涯をささげた人はたくさんいます。

貧しい人のために献身的に奉仕したマザーテレサや、

生涯の多くの時間を宣教にささげたおなじみのフランシスコ・ザビエル

牢獄の中で、鞭に打たれながらも神を賛美したパウロなど、、、

 

信仰は、死すら辞さないほどの大きな力を人に与えるようです。

 

そして、そのようなストーリーを見聞きした際には、

私たちは「すごいな」と思うと同時に、「なぜ彼ら、彼女らにはそんなことができるんだろう」という問いかけをすることはありませんか。

 

 

私にはあります。

 

私の妻とは、アメリカ留学中に出会いました。

お互い学生で、留学生サークルを通して知り合いました。

そして、その現地の留学生サークルでは、週に一回、聖書を勉強する会が彼女の家で開かれていたのです。

初めのうちは知らなかったのですが、彼女と仲良くなるにつれて、彼女には、親や兄弟から家庭内暴力を経験し、鬱に苛まれた、つらい過去があったことを知りました。

普段の明るく、やさしく、人思いな彼女からは、想像もできない過去でした。

 

その話を聞いて、彼女に興味がわきました。

その当時の私の周りには、辛い過去を経験した人たちが多くいました。

そして、その多くの人たちは、その傷を抱えたまま、ネガティブな感情に支配されている人が多くいたからです。

 

 

それを知っている私には、彼女は強く、そして魅力的に映りました。

「私の周りの友人と、彼女とは、何が違うのか」そんな疑問を持った私は、どうして彼女はそんなに明るくすることができるのか、絶望から立ち上がることができたのか、自分よりも相手を優先して接することができるのか、聞きました。

 

"It's because of Jesus that I changed. (イエスのおかげで、私は変わることができた)"

 

が彼女の答えでした。

 

その時です。

 

私は、心理学を勉強するために留学しましたが、心理学よりももっと重要な、もっと知るべきことがあるのではないかと思いました。

私の生涯において、もっとも知るべきこととは、なぜ自分がここにいるのか、という問いではないか。そして、その問いが、神によって解を与えられるのであれば、私は、神について知らなければいけない。

また私は、彼女の魅力について、やさしさについて、強さについて知りたかった。

そして、そんな彼女を理解するためには、聖書と、イエスキリストについて理解しなければいけないことを知りました。

 

そこからです。

私は、授業にもいかず、聖書を読んだり、クリスチャンの友達と話をしたりして、イエスキリストについていろいろと学び始めました。

祈りも何となくのイメージで手を合わせてそれっぽく祈り始めました。

 

 

私は、彼女のことをもっと知りたかったから、彼女の信じる神のことを知る必要があったのです。

 

そして、学べども学べども、一向に疑いは晴れず、クリスチャンになった自分なんて、とてもじゃないけど想像はできなかったです。

 

祈りの中で、神の声を聞かせてくださいと、何度願ったか…。

そうしたら、信じることができるのに…。

 

苦しかったです。

自分の中に、疑いばかりがあり、神を信じるに足る確固としたものはなかったから。

信じたいのに、信じられないと思っていました。

 

しかし、その時に知ったことは、敬虔なクリスチャンでさえも、

すべての問いに答えを持っているわけではないということです。

 

前提として、神という超越的な存在のすべてを知ることは、人間には到底不可能だということです。

 

ならばどうすればよいのか。

神について、どの程度まで知れば、信じることができるのか。

 

ここで、前回のブログに戻りましょう。

私は、『信じないのは、信じられないからではなく、信じたくないからだ』ということを書きました。裏を返せば、信じるには、「信じたい!」という気持ちが重要だということです。

 

当時の私は、信じたい!とは思っていましたが、本当は、心の中では、信じることを拒否する気持ちもありました。

自分がクリスチャンになって日本に戻った際に、友人や家族など、周りの人にどう思われるか怖かったからです。

 

「宗教を信じるって、なんだか心の弱い人か、だまされやすい人が信じるのではないか」

正直に、私自身もそう思っていました。

そして、心の中では、そのリスクを抱えてまで、クリスチャンになりたいとは、思っていなかったのです。

 

しかし、自分の中で、自分自身を変えたいという思いはありました。

自分中心に物事を考える自分ではなく、彼女のように、人を大切にできる人に、

相手を愛して、自分のことも愛せる自分になりたいと思っていました。

私は、彼女を通して、変わりたい自分自身についても見ていたのです。

 

そして一度、信じてみようと思いました。

神の存在を直接信じることは難しい、いやできない。

しかし、神の存在を信じて、命をささげた永野信夫や、マザーテレサ、フランシスコザビエルがいる。

神の存在を信じて、実際に命を得た妻がいる。

 

間接的にでも、その人たちを通して、私はイエスを見ました。

 

そしてもし仮に自分が間違っていたとしても、神がいなかったとしても、別に失うものは何もないし。。。

その時はその時で、クリスチャンを辞めたら良いだけだし。。。

 

なんとも不真面目な姿勢でしたが、

自分が人間として成長できるなら、彼女のように、人を大切にすることができるのであれば、それで良いのではないかとも思いました。

 

私と妻はこれを、"faith experiment (信仰実験)"と呼びました。

とりあえず、一度信じて、やってみよう。

日本に戻った後の、周りからの目は怖いけど、一度神を、信じてみようと思いました。

 

………

 

そして4年半が経ちました。

私は今でもクリスチャンです。

昔持っていた疑いのいくつかは解消されましたが、新しい問いや、疑問点はまだまだたくさんあります。

しかし、今思うことは、『疑問点は、いくら解消されたところで、キリがない』ということです。

永遠の存在の神を、私の知識や経験で推しはかり、100%理解しようとすること自体が、傲慢であると思います。

作られた存在である私たちが、作った存在である神を完全に理解することは、できないでしょう。

 

しかし、これは諦めではありません。

 

聖書では、以下のように書かれています。

 

『味わい、見よ、主の恵み深さを。いかに幸いなことか、身もとに身を寄せる人は』

詩編34章9節)

 

神を信じ、不確定の中でも追い求めていく中で、イエスを経験することはできます。

それを偶然と呼ぶのか、奇跡と呼ぶのか、それは体験した一人一人が決めることですが、イエスを追い求めることは、自分の人生における慰めと、強みになっていると感じます。

 

私は妻の存在を通して、『信じられないから信じない』から、

『信じられないところはあるけど、信じる』に舵をきりました。

 

その実験は、まだ続いています。

そしてその実験は、楽しく、難しく、時にはいらいらする、しかし、希望をもたらすものであることを感じています。

 

塩狩峠』の三浦綾子ではないですが、読者のみなさんも、この旅路につかれることを私は願い、祈っています。

 

次回は、イエスの愛について、語りたいと思います。

さようなら。