『愛と宇宙』Love and the Universe
「神とは、イエスキリストとは誰か。」
どの知り合いのクリスチャンに尋ねるかによって、返ってくる返事は異なるかもしれません。
神の子羊、花嫁、羊飼い、救世主、天のお父さん、友人、etc...
時には、『親分』なんて表現をする方もいるそうです笑
聖書でも、ブドウの木や、命のパンなど、様々な表現がでてきます。
それはなぜでしょうか。
なぜ、神、もしくは、イエスには様々なたとえ方がされるのでしょうか。
それは、神には、さまざまな性質があるからだと思います。
時には、癒し、時には、沈黙し、時には、慰め、時には、救い、時には試練に合わせ、、、
神は、様々な表情を持っております。
しかし、共通している神の性質として、『愛』があります。
『神は愛なり』 (第一ヨハネの手紙4章16節)
そんなこと信じられない、と思うでしょうか。
ー神が愛なら、なぜ自分は今こんなに辛いのか。
ーなぜ、世の中には不条理があふれているのか。
ー神が真理とするなら、なぜ信じている人がこんなに少ないのか。愛をもっと発揮して、信じる人をもっと増やせばよいのに。
なぜ、なぜ、なぜ、、、
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みなさんこんにちは、
コトワドです。
クリスマスも近づき、街もきらきらと色づいてきましたね。
ただ、日々を生きていると、キレイだけじゃない、人間の負の面を見せられることも多くあると思います。
それは、人間が作った政治や経済というシステムに限らず、
このブログのテーマである神に対しても、「なんでですか神様!」と
嘆くことも多いかもしれません。
しかし、私には思うところがあります。
それは、「私の理解、私の解釈、私の推論で神を推し量ることは、できない」ということです。
こんなことをいって、私は考えることをただ放棄しているだけではないか、と鋭い方は言うかもしれません。
批判的な思考を捨てて、ただ、盲目的に信じているだけではないかと。
いいえ、そうではありません。
私は、神を畏れて、神の偉大な力を信じ、それにかけているのです。
神を畏れる??
あまりピンとこないかもしれませんね。
突然ですが、みなさんは宇宙が好きですか。
私は宇宙が好きです。
その大きなスケールは、マリアナ海溝の深海とは比較にならないくらい広大で、想像することさえ難しいです。
だからこそ、引き込まれるのです。
時間があれば、下のビデオを見てくださいませんか。
そして、私たちの信じる神は、この大きな宇宙を作った神なのです。
想像しきれなくて当然、だとは思いませんか?
(私はこのような動画を見るたびに、頭がくらくらします…。)
もし、神が七日ですべてを作ったという前提に立てば、
ただただ、神の大きさに、偉大さに、圧倒せざるを得ません。
そしてこれが、キリスト教の神です。
詩編8章によると
『主よ、わたしたちの主よ。
あなたの御名は、いかに力強く全地に満ちていることでしょう。天に輝くあなたの威光をたたえます。...(省略)...あなたの天を、あなたの指の業をわたしは仰ぎます。月も、星も、あなたが配置なさったもの。...(省略)...羊も牛も、野の獣も、空の鳥、海の魚、海路を渡るものも。主よ、わたしたちの主よ、あなたの御名は、いかに力強く全地に満ちていることでしょう!』
この個所は、神の創造の業をたたえたものと思います。
神の力は、目に見える形で、表れています。
例えばですが、一度、月をじっくりと眺めてみませんか。
星や、枯葉や、宇宙や夕日を、観察してみませんか。
もし何か、心の琴線に触れるものがあるとすれば、それは、物理現象を通して、作り主である神をみているからかもしれません。
主人公の永野が持ってきた果物やお花などを見て、以下のように言っています。
「ねえ永野さん、こんなにきれいな色をおつくりになったのは 神様なのね。わたしは神様の絵の具箱がみたいわ。神様の絵の具箱にはいったいどれほどの種類の絵の具箱があるのかしら。」
似たような個所として、詩編19章1-4節があります。
『天は神の栄光を物語り 大空は御手の業を示す。
昼は昼に語り伝え 夜は夜に知識を送る。
話すことも、語ることもなく 声は聞こえなくても
その響きは全地に その言葉は世界の果てに向かう。』
私は神を信頼します。畏怖の念を覚えつつ。
この広大な宇宙を作った神だからこそ、すべてのことは可能であると、信じています。
最後にもう一か所、私の好きな聖書の個所を引用させてください。
『神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。(ローマ人への手紙8章28節)』
冒頭で述べたように、
『神は愛である』というテーゼについて、
納得のいかない方、矛盾を覚えている方もいらっしゃると思いますが、
そういう方は一度、神に「なぜ?」と問いかけてみてはいかがでしょうか。
私自身が考える「こうあるべき」という考え方と、
神が考える「こうあるべき」という考え方。
どちらもあると思います…。
『主よ、あなたの道をお教えください。わたしはあなたのまことの中を歩みます。
御名を畏れ敬うことができるように一筋の心をわたしにお与えください。』
(詩編86章11節)
一人で、心を落ち着かせて、神に向かい合ってみてほしいと思います。
「神の存在さえ信じられないのに、話しかけるなんてばかばかしい」と思うかもしれませんが、どうせ無駄にするのは数分間ですよね?
ちょっと試してみませんか。
私も含めて、読者のみなさんが、自分の価値観、ものさしではなく、
神の判断基準に立てるように、近づけるようになることが、私の願いであり祈りです。
今日はここでおわりです。
ありがとうございました。