『アイヘイトユーゴッド 』I hate you God.
新年あけましておめでとうございます。
コトワドです。今年も、神の愛について、イエスとは誰かについて、私の信仰について、皆さんに少しづつシェア出来たら良いなと思っております。
突然ですが、私は、1/1の日に妻と大喧嘩をしました。
詳細は省かせていただきたいのですが、妻が家を出ていってしまいました。
その中で、私は必死に祈りました。
「神よ、なぜですか。このようなことがおこっているのは。」
「神よ、もし私があなたの子供だというなら、聖書が言うように私を愛しているなら、私に話しかけてください。」
………。
返ってきたのは、沈黙でした…。
一方的に話しかけている自分が、まったくの愚か者にみえるほどの。
泣きました。
そして泣きながら文句を言いました。
『神よ。私はあなたが嫌いです。本当にいるとしたら、自分を無視しているのが気に入らない。』
『もし、いなかったとしたら、あなたは嘘つきでもっと嫌い』と。笑
神は父のようにたとえられると、前回のブログで書いたと思いますが、
必死に泣いて懇願している子供を、そのままスルーする父親なんて、
この世の中にいるでしょうか?
いないですよね?
―沈黙の神。
「なんとひどい神なのか 。自分と妻が口論するのを横で傍観していただけではなく、慰めを求めているときに無視してくるなんて。」
自分にはその時、理解できませんでした。
辛さ、失望感、怒り、
それらの感情が相まって、
涙が止まらない経験というのは、久しぶりでした。
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そんなこんなで一週間が経ちました。
神に対する不満と怒りは、まったく払拭されたわけではありません。
しかし、「沈黙の神」に対して、違う角度で考えるようになったことはあります。
それは、神は、きっと「私が望むような話しかけ方」ではなく、「神が用意した話しかけ方」で私に話しかけてくるのでは、ということです。
旧約聖書では、アダムやアブラハム、モーセなどに、神が直接話しかけていますが、
イエス降誕後、今の時代では、神の声を直接聴く、というのはめったにないようです。
人によっては、「〇〇よ。私だ。神である。」と厳かに低い声が響いてくるようなイメージがあるかもしれませんね笑
私もそうでした。
妻と喧嘩し、白い壁を見つめ、必死に祈る中で声を探ったのですが、聞こえてきたのは外で車が駐車する音だけでした。
妻は、祈りの中で何かイメージや絵が浮かんでくることが多いようです。
知り合いのクリスチャンは、祈りの中で、聖書の個所が頭に思い浮かんできたことがあるようです。
声や、イメージ、感情、、、
さまざまな形式を伴って、神は、神が望む方法で、私たちに話しかけるということ…。
ちなみに私は、日記を書いているときや、瞑想をしているときなどに、新しい考え方がふってくることが多いように思います。
「錯覚や偶然では?」
や、
「いや普通に話しかけたほうが良くない?」
と思うかもしれませんね。
前者の意見に対してですが、
半分はそうかもしれませんね笑
しかし、後者の意見に対して、もし神を直接見ることができたら、もし神の声を直接聞くことができたら、それはもはや信仰ではなくて、確信になってしまいますよね。
神は、私たちが、不安定さの中にいてなお、神にすがることを望んでいると思います。
もしかしたら、プロポーズなどもそうかもしれませんが、確証がないからこそ、不安が付きまとうからこそ、決断には重みが生まれ、伝えられる側は嬉しいのではないのでしょうか。
「そんなの神の身勝手さだ」
と思うかもしれませんが、神は、私たちが神を愛するという「選択」を、望んでいます。
しかし、神は一方的に私たちが信じるのを望んでいるわけではなく、
それと同時に、決断をする助けは、与えてくださっています。
2000年前から、神は、私たちに直接話すことはやめてしまったかもしれませんが、聖書が、与えられました。
この本を読んで、神について知ることができるというのは、今の私たちにしか与えられていない特権ではないでしょうか。
もう一つ、思うようになったことは、「ただ一時、神が自分に応えてくれなかったといって、神に対して怒りを覚えるのは間違っている(かも)」ということです。
神は私の人生に多くの祝福をもたらしてくれました。
妻との出会い、今の仕事、優しい家族や友人、etc...
その中でも、神が私にくれた一番のギフトは、「イエスの死」です。
クリスチャン的な考え方では、私たち一人一人は罪びとであり、そのままでは、天国に行くことはできません。神を信じ、イエスの死に、自分の罪を重ねることによって、罪があがなわれ、天国に行くことができるとされます。
(この「罪人」や「罪」という考え方については、少し難しいですので、また違う回で書かせていただきますね。)
イエスは、私が、コトワドが救われるように、自分の命を犠牲にしたのです。
そこまでして尽くしてくれた神に、ただ一回、無視をされたからと言って、いらだつのは、筋が通っていないと言わざるを得ないのではないでしょうか。
一つ、たとえ話をさせて下さい。
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あなたは今、やっと歩けるようになった一歳児です。
母親の見ていない隙をついて、横断歩道を渡ろうとしてしまいました。
車が向こうからきていて、今にも轢かれてしまいそうです。
そんな時に、あなたを掴んで、歩道まで逃してくれた方がいました。
そして不幸なことに、びっくりした車は、何とか赤ちゃんを轢くことはなかったですが、代わりに、赤ちゃんを救った方に衝突してしまい、その方は死んでしまいました。
その方は、赤ちゃんの身代わりになったのです。
しかし、赤ちゃんは、まだ幼かったため、大人になった今は、その時のことをよく覚えていません。
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聖書的な考え方では、あなたを救ったその方こそ、イエスキリストです。
そしてイエスキリストは、三日目に蘇り、神の御業を示されました。
イエスは、人間の形をとって地上に現れましたから、車に轢かれるのは痛かったでしょう。車に轢かれるのは怖かったでしょう。
それでもなぜ、神は人間として地上にやってきて、私たちを救おうとしたのか。
それは、「神が私たちを愛していたから」です。
しかし、多くの人たちは、自分の命を救ってくれた神の愛に気づかずに今を生きていると思います。
自分のために身代わりになって死んでくれた人がいること、
その理由として、自分は愛されてるということ。
私は、多くの人に、このことを知っていただきたいな、という思いで、
このブログを書いています。
しかし、神の愛を知っているはずのクリスチャンである私も、そのことを忘れて、
前述のように神に文句を言ってしまっています。
「返事してよ!」
「無視すんなや!」
「何で現実はこうやねん!」
別に、神に対して文句を言うことは、悪くないとは思います。
神は、私たちをあえて従順なロボットにしなかったわけですから。
あえて不完全に創造し、物事を選択できる自由意志を与えたわけですから。
(アダムとイブが、禁断の果実を食べてしまったのが、人類が最初に経験した、自由意志の間違った使い方と言われています)
意図的に作られた不完全な世の中で、不完全な存在で、私は、今日も言ってしまうかもしれません。
『アイヘイトユーゴッド。』
(私は神であるあなたが嫌いだ)
しかし、そんな中で、神から帰ってくり言葉は、
『アイラブユーマイソン』
(私は息子であるあなたを愛している)
です。
直接その言葉を聞くことはないかもしれません。
時間が経ってからその言葉が返ってくるかもしれません。
ただし、新年から一週間たち、私がいま改めて感じているのは、やはり、神の愛なのです。
不安定の世の中で、同様に不安定な自分が感じるのは、沈黙を突き抜いて訴えてくるこの言葉、
「私はあなたを愛している」
という無言の響きです。
無言ですから、直接聞こえることはできませんが、
それは妻の励ましを通して、また、自分が神について知っていることを通して、
私には聞こえる。
私は、この響きに対して、いつでも耳を澄ませていたい。
これは、錯覚でしょうか。
または、勘違いでしょうか。
それとも、盲目信仰でしょうか。
いいえ、これは、神が私に語りかける言葉なのだと、
私は信じています。