『美しい不完全さ』 Beautiful Incompleteness

みなさんこんにちは、

コトワドです。

 

前回のブログでは、神を中心に生きること。

神の時間の中で、自分の時間が使われることについて書きました。

 

今回はそれに関連して、

少し、クリスチャンの生身の話をさせて下さい。

 

 

皆さんは、クリスチャンと言えば、

常に神のことを意識していて、聖書を毎日読んで、

祈りを欠かさず行って、いつも神のことを賛美している、

といったイメージをお持ちでしょうか。

 

一部の敬虔なクリスチャンでは、その通りかもしれません。

そのような方たちの信仰は、本当にすごいなと尊敬します。

神からの、大きな祝福だとも思います。

 

しかし、そのような、常に大きな信仰を一定に保ち、

ピュアな心で神を崇拝し続けることは、あまり、現実的ではないかと思います。

 

ほとんどのクリスチャンも、

神の存在を時には疑い、祈ることが嫌になり、

神のことを無視した生活をすることがあるでしょう。

 

それはなぜでしょうか。

 

 

一言でいうと、

それは、私たちが「人間だから」だと、思います。

 

では、人間とは、何でしょうか。

 

私が思うに、人間とは、

不完全で、不安定な存在だと思います。

 

罪に汚れ、過ちを犯し、客観的に見たら、

美しい点よりも、醜い点の方が多いかもしれません。

 

ではなぜ、神はそのような人間を作ったのでしょうか。

なぜ、欠点がなく、間違いを犯さない存在に作らなかったのでしょうか。

 

全ての人が神のことを初めから知っており、

コロナなどの病にも免疫があり、戦争やテロを起こさせず、

全ての人に愛を示すことができる存在にしなかったのでしょうか。

 

 

 

 

これは、難しい問いだと思います。

 

クリスチャンによっても意見が分かれるか、

考えることそのものを放棄する方もいらっしゃるかもしれません。

 

その理由は、人間の視点と、神の視点が、

あまりにもかけ離れているからでしょう。

 

 

 

 

これはあくまで、私の推論にすぎないのですが、

「神は何に価値を置くか」が、重要なのではないでしょうか。

 

全知全能で、すべてのことが可能な神は、

私たちから、何を求めているのでしょうか。

 

二つのケースを比較してみて下さい。

 

(1) 完全で、すべてのことを理解して、納得したうえで人間が言う

「神よ。私はあなたのことを100%理解している。だから、あなたのことを信じる」

 

それとも、

 

(2) 不完全で、何が正しいか分からないながらも、

無我夢中で神を追い求める中ででてきた「神よ、あなたが正しいのかどうか分からない。本当にいるのかどうか分からない。でも、あなたのことを信じる」でしょうか。

 

私は、後者の方が、重みがあるなと思うのです。

神の胸にも、ぐっとくるのではないでしょうか。

 

 

では、そのように、あえて人間を不完全に作り

愛を「自然に選ぶもの」から「選択する」ものにした神は、

結果として、戦争やテロをも許しているのであれば、

自分勝手な神として、 凶弾されるべきでしょうか。

 

その解釈は、読者の皆様にお委ねします。

 

 

 

――――――――

 

不完全とは、ある意味では、美しいのかもしれません。

 

確かに、100%事実と分かっているものに対して、新たに信じる!と言うことには、

どんな価値があるのでしょうか。

それは恐らく、科学がやれば良いことでしょう。

新薬の開発や、4Gから5Gへの移行、方程式の発見など…。

 

別に、『100%の世界』に、私たちの信念まで、入れ込む必要はないと思いますし、

現実的でもないと思います。

 

私たちは、分からない中でも、何かを信じ、

汗をかきながら真実を追い求める存在に作られたのではないでしょうか。

 

その真実が、カルト宗教に向けられたり、

ある特定の人間に向けられたりしたら、

それは非常に不幸なことだと思いますが。。。

 

(そこのセキュリティネットは、

神に作ってほしかったと思います笑)

 

 

もし、「敢えて」不完全に作られた、という仮定が正しいのであれば、

私たちは、どういった態度をとるべきでしょうか。

 

第一に、知っているふりは、やめるべきかもしれません。

 

世の中には、知っていることと、知らないこと、どちらの方が多いのでしょうか。

それはもう、圧倒的に知らないことの方が多いでしょう。

 

古代ギリシャソクラテスも、「無知の知」という言葉を用いて、

「知らないことを知っている」という状態を、概念化しましたよね。

 

宇宙の広さや始まり、人間の今の形はどこからきたのか、

前回は本当に猿だったのかなど、今でも、本当のところは分かっていません。

 

ソクラテスのような偉人でさえも、自分は何も知らないと言っているのです。

私たちも、安易な自己満足にごまかされるのではなく、

自信を持って、「自分は知らない」と、言える勇気を持ちませんか。

 

第二に、このように、自分は多くのことを知らないと認めることと、

神を信じることとの間には、矛盾があるのでしょうか。

 

 

みなさんは、どう思いますか。

 

 

 

 

質問の回答からはずれるかもしれませんが、

私は、「無知の知」の姿勢が、神の探求へと向かう姿勢は、

むしろ、自然なものかなと思います。

 

人は、不確かであるからこそ、

何かしらの確かさを求めるものではないでしょうか。

 

それはちょうど、

一人だとさみしいから相手を求めたり、

お腹がすいているから、ご飯を求めたりするように。

 

 

そして、探求したことの結果として、神を信じるかどうかを選択することは、

その人の自由でしょう。

 

 

それでは、最後に、聖書では、どのような人が神を信じるといっているでしょうか。

引用させてください。

 

 イエスに触れていただくために、人々は乳飲み子までも連れて来た。弟子たちは、これを見て叱った。しかし、イエスは乳飲み子たちを呼び寄せて言われた。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」   (ルカによる福音書 18章15-17節)

 

子どのような人が、神の国を受け入れる??

 

哲学者のように、あれやこれや考え、黙想し、思索し、ある一定の境地にたどり着いた人が、神に到達するのではないでしょうか。

 

そうではないようです。

 

別に神ではなくても、サンタクロースや、妖精や、おばけなど、

子どもは、いろんなことを、時には目を本当にきらきらさせて、素直に信じますよね。

 

それは別に、証拠があるからではありません。

論理的思考能力がない子どもにとって、

必要なのは証拠ではなく、想像力だけです。

 

絶対的な神からすれば、不完全な私たちは、大人であっても、しょせんは幼子のように映っているのかもしれませんね。

私たちが科学という物差しを使って、いろいろなことを証明しようと試みたとしても、それは、神のスケールからすると、

子どもがビーチで、砂が水にぬれると固まるという特性を生かしてお城を作ろうとしているようなものでしょうか。

 

科学を駆使し、どう真実を探求していったとしても、神の知には、とうに及ばないのでしょう。

 

そして神は、幼くて不完全な私たちに、知っているから信じるのではなく、

知らないながらも、好奇心いっぱいで、わくわくした気持ちで、信じてくれるのを、

待っているのではないでしょうか。

 

みなさんは、どう思われますか。