『自分の時 v.s. 神の時』 My v.s. God's Hour

ビルの二階から、

下の交差点を歩ている人たちを観察する。

 

人を待つ人。

早足で歩き去っていく人。

ペアでおしゃべりしながら歩く人。

 

無表情の人。

怒っている顔の人。

真剣にスマホで会話している人。

楽しそうな表情の人。

 

それぞれの人には、それぞれのストーリーがある。

みんな、どんな人生を生きているのだろうか。

 

何を目的に生きているのだろうか。

それとも、特に目的などは意識せず、ただ、毎日を生きているのだろうか。

 

私は考える。

 

もしそうだとしたら、辛いなと。

 

まるで、無地の、真っ白なピースを完成させようとしているような。

ピースを埋めていったとしても、図は何もない。

 

達成感はあるかもしれない。

しかし、感動はない。

 

 

そもそも、人生に目的はあるのか。

頑張って生きて、人間関係や、仕事でのキャリアを積み上げていったとして、

何の図を、私たちは完成させようとしているのか。

 

 

私は、なぜ、今ここに存在しているのか。

 

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皆さん、こんにちは。

コトワドです。

 

皆さんには、「座右の銘」というものはありますか。

普段から、大切にしたい考え方や、好きな言葉など、

いろいろとあるかと思います。

 

私は、「とりあえず何とかなる」という言葉が好きで、

普段の仕事でもそれを信じながら、仕事していることが多いように思います。

心に余裕が生まれ、周りにも優しく接することができるようになりますので、

良い言葉だなと思います (そして、実際に、大抵のことは何とかなっています)。

 

毎日の仕事が楽しいです。

 

また、クリスチャンとして、大切にしたいと思う考え方があります。

 

それは、「この世界は、別に自分を中心に回っていない」ということ、

言い換えれば、自分はただ、神によって用いられる歯車の一つに過ぎないということです。

 

一件ネガティブに聞こえるかもしれませんが、私はこの考えを、

前向きで積極的な気持ちで受け入れていることができるように感じます。

 

 

もともとも私は、

「自分がもっと頑張らなきゃ」、「もっと成長しなきゃ」、

「周りから認められなきゃ」、「周りの人を幸せにしなきゃ」

と、あたかも自分が世界の中心にいて、

自分が世界を良いように変えていく必要があると感じていました。

 

自分で考え、計画を練り、どうしたら、自分の存在を大きくして、

この世に働きかけていくことができるのか。

それが、大きな問いでした。

 

自分が中心の、考え方でした。

 

そして、正直、そのような考え方は非常に楽しく、わくわくしました。

頑張れば頑張るほど、自分にリターンが返ってくるのですから。

非常にシンプルな生き方でもあると思います。

 

・頑張る⇒認められる⇒幸せ

・たまに休憩する

・もっと頑張る⇒もっと認められる⇒もっと幸せ

 

ただ前だけを、見ていました。

 

………

 

しかし、今ではクリスチャンとして、少し違った考え方を持つようになりました。

二つの聖書の個所を、紹介させてください。

 

エスは皆に言われた。「私について来たいものは、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、私に従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、私のために命を失う者は、それを救うのである。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の身を滅ぼしたり、失ったりしては、何の得があろうか。」 (ルカによる福音書9章23-25節)

 

「自分の十字架」とはなんでしょう?

これは、神の御心に従順に歩む、ということの比喩表現として用いられています。

まるで、夏目漱石の言う「則天去私」のようですね。

 

さて、あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座についておられます。上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい。あなたがたは死んだのであって、あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているのです。...(中略)...また、キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。...(中略)...そして、何を話すにせよ、行うにせよ、すべてを主イエスの名によって行い、イエスによって、父である神に感謝しなさい。...(中略)...何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心から行いなさい。あなた方は、主キリストに仕えているのです。            (コロサイ信徒への手紙3章1-24章)

 

クリスチャンは、イエスを信じたならば、一度死んだものとして、

すべての行動を「神のため」というベクトルに向け、

日々を過ごすようにということが書かれています。

 

 

例え、歯を磨くときでも、床を掃除機で掃除するときでも、

花を育てるときでも、誰かと一緒にご飯を食べるときでも、、、

 

「神よ、今この瞬間をあなたに捧げます。私のためではなく、あなたのために、用いてください」と祈る。願う。

 

自分という人間は、あくまで神の計画の一部にしか過ぎないことを理解し、

ただ、神の望むままに用いられることを願う。。。

 

そのような生き方は、当初、私にとってはぎょっとする考え方でした。

いちいち神を意識するのは、精神的にも大変そうだし、

自分の欲求や、自分の計画や、自分の感情までも無視して、ただ神に従うなんて、

「まるでロボットのようだ」と。

 

 

しかし、聖書的な前提に立つのであれば、

宇宙を作り、地球を作り、生命を創造したのは神です。

そして、そのような神は、どのような性格を持ってたのでしょうか。

 

みなさんの周りにいる、優しい人を思い浮かべてみて下さい。

 

大親友のAさんですか?

それとも、いつもお土産をくれる課長のBさんですか?

近所の、野菜をいつも分けてくれるCさんでしょうか。

 

聖書の神は、その方よりもずっと優しく、慈愛に満ち、

あなたのことを愛しています。

 

だから私は、安心することができます。

 

エスは、誰よりも優しく、

誰よりも力強く、

誰よりも頭が良く、

誰よりも信頼できます。

 

だから私は、喜んで自分の十字架を背負います。

 

私は、コトワドが、自分という人間が死んだつもりで、

ただこの人を、自分の人生の中心に置くことができます。

 

それは丁度、無力でまだ幼い子どもが、ただ従順に、愛する母親に付き従っていくように。

幼い子どもは親が信頼できることを知っています。

人参を食べたくはなくても、母親が食べさせようとすれば、

それは自分にきっと良いことだと知っているので食べます。

叱られた際には、自分が本当に悪いことをしたんだと、信じます。

 

いつからでしょう。

世界の中心が、母親から、自分に代わるのは。

 

………

 

私は今、生きています。

そして私は、神のためだけに生きています。

私が、自分の人生で仕えているのは、イエスだけです。

 

エスだけが、自分の生きる目的です。

 

私の人生は、

直接的には、職場の上司のためではなく、妻のためでもなく、友人のためでもなく、

家族のためでもなく、自分のためでもありません。

 

しかし、私は今、ここに生かされています。

家族を与えられ、妻と子を与えられ、仕事を与えられ、仲間を与えられ、

ここに存在しています。

 

何も持たずに生を受け、神に導かれ、今ここに存在してことには

意味があるのでしょう。

 

そして、この場所で、私の周りの人たちを愛する中で、

神のことも愛することができていけば、それに勝る幸せはありません。

 

 

最後に一つ、神のしもべとして生きる中で、

大きく変わったことがあります。

 

それは、平安の中に生きることができること。

 

以前、世界の中心に自分がいたときには、不安がありました。

 

「自分が成長しなければ、」

「自分がパートナーを守らなければ、」

「自分が家賃を払わなければ、」

 

しかし、私の人生は、私よりも、何よりも大きな存在によって回っていることを知ることで、私はただ、その流れに身を任せることができます。

 

 

私はただ、神の器として、神の望むように生きる。

 

そこにはエゴはありません。恐れもありません。

神の愛と、力と平安が満ちているのですから。

 

私は今日も祈る。

 

『神よ。私は、私の人生をあなたに委ねます。

神の時の中で、自由に使われますように。』