思考停止 Frozen Brain

「どこまで考えるのか」と考える。

 

例えば、

・Aさんは、「ほうれん草は体に良い」と言う。

・Bさんは、「ほうれん草は、ビタミンがたくさん含まれているから体に良い」と言う。

・Cさんは、「ほうれん草に含まれるビタミンCは、抗酸化作用があり、ガンや動脈硬化脳卒中、糖尿病などの予防になるから体に良い」と言う。

 

日常生活において、どこまで追求するのか、と考える。

 

部下が、前日に締め切りの書類を遅れて提出してきたときに、

・部下は仕事ができないダメなやつとみなすのか、

・それとも、もしかしたらプライベートで大変なことがあり、仕事が手につかずに、提出が遅れてしまったのか、と推測するのか。

 

 

考えようと思えば、いくらでも考えることができる。

可能性を追求しようと思えば、どこまででも追及できる。

 

しかし、「健康に良いから甘酒飲んでいるのよー」という人に、

「確かに甘酒は良いよね~。○○や▢▢の成分が入っているし、△△という栄養素は××にも効くしね」という風に返答すれば、多くの人にはドン引きされてしまうでしょう。

 

 

どこかで、落ち着くレベルがある。

どこかで、思考を停止する瞬間がある。

 

そして、そこに到達するまでの深さは、人によって異なるし、

どの領域の話をするのかによってもその深さは異なる。

 

しかし、共通しているのは、必ずどこかで考えることをやめる瞬間が出てくる、

ということでしょう。

 

それはなぜか。

 

単純に、大変だから。

 

相手に傷つく言葉を吐いてしまった。

・相手は今辛いと思っているかもしれない。

・もしかしたら、別れたいと思っているかもしれない。

・もしかしたら、別の友達と相談して、自分の悪口を一緒に言うのかもしれない。

・もしかしたら、悪口を言うだけではなくて、過去にしたあのことやそのことも話しするかもしれない…。

・もしかしたら、もしかしたら、もしかしたら…。

 

いろいろと考えるかもしれませんが、

多くの人は、上の2行目や3行目でストップするのではないでしょうか。

もちろん、人によっては、6行目や7行目まで作り出す想像力の豊かな人もいるでしょう。

 

 

ただし、悪いことの考えすぎは、うつ病を誘発し、

良いことの考えすぎは、ナルシストの始まりかもしれません。

 

そう考えると、思考停止は、人が身に着けた一種の適応なのかもしれません。

 

いちいち考えて過ぎてしまっては、こちらが病んでしまう。

判断材料が増えすぎてしまっては、結局決断はできない。

 

どこかで考えることをやめなければ、生きることが大変になってしまう。

(全く考えないのも、厚顔無恥になってしまうかもですが)

 

 

環境保護主義者、

菜食主義者

ミニマリスト

 

と呼ばれるような人たちは、

「環境は守ったほうが良い」、

「お肉はできるだけ控えて、野菜を多めに食べたほうが良い」、

「ものは少ないほうが良い」、

 

と言った誰もが納得するような命題からスタートして、

平均以上の深さまで思考を突き進めた人たちか、

独自の虫眼鏡を持ち、ある意見を極端に拡大して大切だと捉える人たちと言えるでしょう。

 

では、「宗教家」もしくは、「無神論者」と呼ばれる人たちはどうでしょうか。

 

当然ですが、

 

「神は存在するのか」

 

が最初のスタートラインになるでしょう。

 

そして、いろいろな人や本の意見を聞いて、神が存在すると思えば、

宗教家と言われ、その神がキリスト教の神であれば、クリスチャンと呼ばれ、

神がいないと思えば、無神論者と呼ばれるのが一般でしょう。

 

しかし、この「神は存在するのか」という問いから、

次のレベルへ向かおうとする人が、一体どれくらいいるでしょうか。

 

私は、少ないと思うからこそ、

神を信じる、と言う人も、神を信じないという人も、

信念という領域まで到達した人であれば、

等しく尊敬の念を覚えます。

 

よく、神を信じる人は、盲目的だ、と聞きます。

言い換えれば、思考を停止しているか、

天国や、神の加護など、都合の良い部分だけを信じていると。

 

もちろん、すべてを知りえない以上、どこかで思考を停止せざるを得ないわけですが、

同様に、

「みんながそう思っているから」

「偉い人がそう言っているから」という理由で、

他者に迎合し、それ以上深くを思索をしないことは、盲目的信仰と同じで、

思考停止をしているにすぎないでしょう。

 

そして、私の願いは多くの人が、

「神は存在するか」の問いからスタートし、

自分なりの深さまで到達した上で、

神が存在するかどうかの結論を出すことです。

 

それが、イエスでもノーでも、どちらであったとしても。

 

 

――――――――

 

皆さんこんにちは、

コトワドです。

 

私はよく、思考停止にあわせて、「不都合な真実」ということを考えます。

 

そのことについて語る前に、

読者の皆さんは、

「神は存在して欲しい」と思う人、「神は存在しないで欲しい」と思う人と、

どちらが多いと思いますか。

 

別に、キリスト教の神に限らずとも、アッラーでも、エホバでも、ゼウスでもガネーシャでも、天照大神でも、漠然とした「神」でも、ご先祖様でも、「常に私たちを見守ってくれていて、死後にであうことができる」存在であれば、なんでも大丈夫です。

 

 

………。

 

 

直接の回答からはそれますが、

私は、もし神などが存在せずに、死後も自分が「ゼロになる」のであれば、

楽だなぁとは思います。

 

私は、自分自身がそこまできれいな存在ではなく、

普段はいやしいことも考えているし、

後ろめたいこともたくさん人生で行ってきていることを知っているからです。

 

聖書の神は、私の髪の毛の総数まで知っている神として描かれていますが、

もし神の存在を認めてしまうと、私が普段どんなに神のことをがっかりさせてしまっているかに向き合わなければならず、心理的に気持ち良いものではありません。

 

そして、私と同じように、とは言いませんが、

自分の生き方に心から胸を張れる人、白黒包み隠さずに、ご先祖様に自分のすべてを誇れるぞ、という方は何人いるでしょうか。

 

晩年のマザーテレサくらいではないでしょうか。

 

私は、醜い自分を知っているからこそ、神が存在することからは目をそむけたくなりますし、クリスチャンとしての自分に生き辛さを感じてしまうこともあります。

 

人は、意識的に自覚しているかどうかは別として、

神は存在しない、という前提の方が、生きやすいものではないでしょうか。

 

そしてそれば、今述べたような個人での領域に限らず、

社会的、政治的なレベルでの「神の都合の悪さ」は同様でしょう。

 

当然ですが、多くの社会のシステムや制度が「この世」に焦点を当てたものになっています。

どうすれば、もっとハッピーに暮らせるか。

お金を稼げるか。お互いに支えあうことができるか。

 

 

「あの世」に焦点を当てて、不確実な信仰をよりどころにして

どうすればもっと神を喜ばせることができるか、どうすれば天国に行けるか、

といったことを助長するような制度は一切ありません。

 

同様に、例えば、世の中には週末はどこかに旅行しよう、といった動機は満ち溢れていますが、週末はボランティアをしよう、という動きに変わっていくことを、既存の旅行会社の人などは快く思わないでしょう。

 

つまり、「神はいるのか」という問いをスタートする際に、

「神は存在しないで欲しい」という願いが、個人レベルでも社会レベルでも

ある程度存在するのではないかと思うのです。

 

 

神が存在することを認めてしまえば、

個人でも、社会でも、ぶつかる部分が山ほどでてきてしまうでしょう。

 

そしてそれは、

冒頭での、どこまで考えるのか、につながる事でもあると思いますが、

社会的に非常に、「面倒くさいこと」であると思うのです。

 

 

 

 

ここで私が言いたいことについて、

 

別に信者にとって逆風が吹いている、

ということではありません。

 

「信仰」と言う領域は、

既に土台からしてフェアではないと文句をいうことでもありません。

 

 

私はただ、「思考停止だ」と言って

相手を判断する前に、自分自身が思考停止に陥っていないかどうかを

振り返ってもらえれば良いなと思っているにすぎません。

 

 

日本で過ごしていれば、

特に突き進んで考える必要もないけれど、

考えているからと言って、出世したり何か自分のためになったりするわけではないけれど、

周りから、「何?そんなこと考えているの?」と笑われてしまうかもしれないけど、

 

改めて、今、私がここに存在していること、

 

これが果たして偶然なのか、必然なのか。

 

命があること、

思考があること、

地球があること。

 

果たしてそこに意味があるのか、ないのか。

 

 

誰かの言葉ではなくて、

拙くても、自分の言葉で。

 

「私は○○だと思う。」と言えるようになること。

 

 

私は、重要だと思います。

 

 

この世で生を受けた以上、

生の意味を、一度問いてはみませんか。