『二種類の神』 Two Gods

みなさんこんにちは。

コトワドです。

 

ここまで何本か、ブログ記事を書かせていただきましたが、

みなさんの発見になることや、参考になることはありましたでしょうか。

 

私の願いと祈りは、

「クリスチャン」と呼ばれる人たちが、実は皆さんにとって、そこまで遠い存在ではないこと、

私たちでも、迷ったり疑ったりすることはあるということ、

それを知り、神に対して少しは興味を持って、一人一人が真剣に神を追い求めるようになればということです。

 

目の前の仕事は大切。

週末のテストも大切。

新着のラインメッセージも大切。

 

しかし、「なぜ自分はここにいるのか」という問いに答えることこそが、

 

私たちにとって、最も重要な問いではないでしょうか。

 

別に、キリスト教ではなくても良いですが (できればキリスト教だと嬉しいですが)、

「真理」というものをそろそろ探してみませんか。

そこで、自分なりに考察したり、検証したりしてみてください。

 

ただし、世の中にはカルト宗教や、

お金目的の怪しげな宗教団体もいますから、そちらはお気をつけて。

 

 

 

なぜ真理を知る必要があるのでしょうか。

 

「天国に行ける」 というのは、最も大きなメリットとしてあると思います。

私は、多くの人が、救われて欲しいと願っています。

ただし、価値観を押し付けるつもりはありません。

 

もう一つは、ブログの後半で紹介しますね。

 

さて、 

 

もう、真理を知ることを先延ばしにするのはやめませんか。

 

「こんな自分も救ってくれない神なら、全能とは言えない」や、

「死は先のこと。とりあえず今が大切」といったことを言う方もいるかもですが、

 

それは、私には正直よくわからない弁明です。

 

怠惰な自分を正当化するための、言い訳ではありませんか?

 

 

 このブログのタイトルにもありますが、

世の中には、二種類の神がいます。

 人を創った神と、人が創った神です。

 

そして、人が創った神には、仏様や、ガネーシャ様、

そして、自分自身も含まれるでしょう。

 

自分自身が神になるとはどういうことか。

 

それは、大多数の日本人がそうだと思うのですが、

世界の中心が神ではなく、自分であると捉えてしまうことです。

 

何か物事を行う際の基準が、「こうすると自分が気持ちいいから」や、

「こうすると自分が嫌な気分になるから」となっている状態は、

自分自身が行動指針となっていますよね。

 

神からすると、作り主である自分を無視して、

各自がおのおの好きなように行動している状態は、

少し悲しいものだと推測します。

 

それはちょうど、

さいころに血潮をかけて育て上げたかわいい子どもが、

大人になると自分のことをすっかりと忘れて、

それぞれの享楽にふけっている状態を見て悲しむかのように。

 

 

これに関して、少し長くなりますが、

私の好きな聖書個所を引用させてください。

 

さて、あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。上にあるものに心を留め、地上のものに心を惹かれないようにしなさい。あなたがたは死んだのであって、あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているのです。...(中略)... だから、地上的なもの、すなわち、みだらな行い、不潔な行い、情欲、悪い欲望、および貪欲を捨て去りなさい。...(中略)... あなたがたも、以前このようなことの中にいたときには、それに従って歩んでいました。...(中略)... また、キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。...(中略)... そして、何を話すにせよ、行うにせよ、すべてを主イエスの名によって行い、イエスによって、父である神に感謝しなさい。   (コロサイの信徒への手紙 3章1-17節)

 

 

私は、コトワドという人間は、一度、死にました。

そして、死んだ際に、「自分自身」を基準とした考え方が、

なくなりました。

 

そして、イエスの十字架と共に、復活しました。

新たな、「神の基準」を、身に着けて。

 

 

神は、自分自身を捨てて、イエスの十字架とともに一度死に、

創り主である自分のところに戻ってくるのを待っていると、

クリスチャンは考えます。

前回のブログの内容と被りますね。

 

この「自分自身を捨てる」、そして、

「神の愛の支配に身をゆだねる」という側面が、

キリスト教にはあるからこそ、

 

もしあなたが信じたら、あなたの生活は、180度変わるのです。

 

あなたの価値観が逆転します。

 

 

よく、巷で聞く言葉で、私も昔はそう思っていた言葉があります。

 

「宗教を信じるのは、心の弱い人がやること」

 

本当にそうでしょうか。

信じる前と、信じた後では、行動が180度変わるんですよ。

 

コロサイの信徒の手紙の引用個所にあるように、一度信じたら、

・今まで好きだった、悪い情欲を捨てなければいけないかもしれない。

・聖書を読まなければならない。

・神からの目を常に気にしなければいけない。

 

信じることには、勇気が伴うと私は思います。

(盲目的に信じる場合は別としてです)

そしてそれは、強い行為であると思います。

 

だからこそ、多くの人が、今の快適な状態を抜けてまで、信じることに抵抗を覚えるのではないでしょうか。

自分が神である状態から、抜け出したくないと。

 

しかし、真理を知ること、信じることの二つ目のメリットとして、

次のことを紹介させてください。

 

それは、「真理はあなたを自由にする」

(The truth will set you free) ということです。

 

神を信じることは、必ずしも「縛られること」ではない、と思います。

詳しくはまた今度、こちらのテーマで書かせていただきますが、

世界の軸を、自分から神に移すことで、解放される側面があります。

 

私たちが普段生活する中で、

・就職活動で職を手に入れることのプレッシャーであったり、

・人間関係のトラブルであったり、

・病に苛まれて、余命三か月と言われたり、

いろんな問題があると思います。。。

 

神を信じる、とは、そもまま、自分が抱えている悩み、問題をすべて、

神に丸投げする、ということでもあります。

 

そして、コロサイの信徒の手紙の聖書個所にあるように、

キリストの平和が、自分を満たしてくれるようになります。

 

「この問題は、自分の問題ではないのだ」と。

 

どうか、みなさんが、勇気をもって、自分自身を創った神に、近づけますように。

そして神の愛と、愛からくる平和を感じることができますように。

 

キーボードをたたきつつ、私は祈ります。