『アイヘイトユーゴッド 』I hate you God.

新年あけましておめでとうございます。

コトワドです。今年も、神の愛について、イエスとは誰かについて、私の信仰について、皆さんに少しづつシェア出来たら良いなと思っております。

 

突然ですが、私は、1/1の日に妻と大喧嘩をしました。

詳細は省かせていただきたいのですが、妻が家を出ていってしまいました。

その中で、私は必死に祈りました。

 

「神よ、なぜですか。このようなことがおこっているのは。」

「神よ、もし私があなたの子供だというなら、聖書が言うように私を愛しているなら、私に話しかけてください。」

 

 

………。

 

 

返ってきたのは、沈黙でした…。

一方的に話しかけている自分が、まったくの愚か者にみえるほどの。

 

泣きました。

 

そして泣きながら文句を言いました。

 

『神よ。私はあなたが嫌いです。本当にいるとしたら、自分を無視しているのが気に入らない。』

『もし、いなかったとしたら、あなたは嘘つきでもっと嫌い』と。笑

 

神は父のようにたとえられると、前回のブログで書いたと思いますが、

必死に泣いて懇願している子供を、そのままスルーする父親なんて、

この世の中にいるでしょうか?

いないですよね?

 

 

―沈黙の神。 

 

「なんとひどい神なのか 。自分と妻が口論するのを横で傍観していただけではなく、慰めを求めているときに無視してくるなんて。」

 

自分にはその時、理解できませんでした。 

 

辛さ、失望感、怒り、

それらの感情が相まって、

涙が止まらない経験というのは、久しぶりでした。

 

 

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そんなこんなで一週間が経ちました。

 

神に対する不満と怒りは、まったく払拭されたわけではありません。

しかし、「沈黙の神」に対して、違う角度で考えるようになったことはあります。

 

それは、神は、きっと「私が望むような話しかけ方」ではなく、「神が用意した話しかけ方」で私に話しかけてくるのでは、ということです。

 

旧約聖書では、アダムやアブラハムモーセなどに、神が直接話しかけていますが、

エス降誕後、今の時代では、神の声を直接聴く、というのはめったにないようです。

 

人によっては、「〇〇よ。私だ。神である。」と厳かに低い声が響いてくるようなイメージがあるかもしれませんね笑

 

私もそうでした。

妻と喧嘩し、白い壁を見つめ、必死に祈る中で声を探ったのですが、聞こえてきたのは外で車が駐車する音だけでした。

 

妻は、祈りの中で何かイメージや絵が浮かんでくることが多いようです。

知り合いのクリスチャンは、祈りの中で、聖書の個所が頭に思い浮かんできたことがあるようです。

声や、イメージ、感情、、、

さまざまな形式を伴って、神は、神が望む方法で、私たちに話しかけるということ…。

 

ちなみに私は、日記を書いているときや、瞑想をしているときなどに、新しい考え方がふってくることが多いように思います。

 

「錯覚や偶然では?」

や、

「いや普通に話しかけたほうが良くない?」

と思うかもしれませんね。

 

前者の意見に対してですが、

 

半分はそうかもしれませんね笑

 

しかし、後者の意見に対して、もし神を直接見ることができたら、もし神の声を直接聞くことができたら、それはもはや信仰ではなくて、確信になってしまいますよね。

 

神は、私たちが、不安定さの中にいてなお、神にすがることを望んでいると思います。

もしかしたら、プロポーズなどもそうかもしれませんが、確証がないからこそ、不安が付きまとうからこそ、決断には重みが生まれ、伝えられる側は嬉しいのではないのでしょうか。

 

「そんなの神の身勝手さだ」

と思うかもしれませんが、神は、私たちが神を愛するという「選択」を、望んでいます。

しかし、神は一方的に私たちが信じるのを望んでいるわけではなく、

それと同時に、決断をする助けは、与えてくださっています。

 

2000年前から、神は、私たちに直接話すことはやめてしまったかもしれませんが、聖書が、与えられました。

この本を読んで、神について知ることができるというのは、今の私たちにしか与えられていない特権ではないでしょうか。

 

もう一つ、思うようになったことは、「ただ一時、神が自分に応えてくれなかったといって、神に対して怒りを覚えるのは間違っている(かも)」ということです。

 

神は私の人生に多くの祝福をもたらしてくれました。

妻との出会い、今の仕事、優しい家族や友人、etc...

 

その中でも、神が私にくれた一番のギフトは、「イエスの死」です。

クリスチャン的な考え方では、私たち一人一人は罪びとであり、そのままでは、天国に行くことはできません。神を信じ、イエスの死に、自分の罪を重ねることによって、罪があがなわれ、天国に行くことができるとされます。

 

(この「罪人」や「罪」という考え方については、少し難しいですので、また違う回で書かせていただきますね。)

 

 

エスは、私が、コトワドが救われるように、自分の命を犠牲にしたのです。

そこまでして尽くしてくれた神に、ただ一回、無視をされたからと言って、いらだつのは、筋が通っていないと言わざるを得ないのではないでしょうか。

 

一つ、たとえ話をさせて下さい。

 

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あなたは今、やっと歩けるようになった一歳児です。

母親の見ていない隙をついて、横断歩道を渡ろうとしてしまいました。

車が向こうからきていて、今にも轢かれてしまいそうです。

そんな時に、あなたを掴んで、歩道まで逃してくれた方がいました。

そして不幸なことに、びっくりした車は、何とか赤ちゃんを轢くことはなかったですが、代わりに、赤ちゃんを救った方に衝突してしまい、その方は死んでしまいました。

その方は、赤ちゃんの身代わりになったのです。

しかし、赤ちゃんは、まだ幼かったため、大人になった今は、その時のことをよく覚えていません。

――――――――――――――――――――――――――――――――

 

聖書的な考え方では、あなたを救ったその方こそ、イエスキリストです。

そしてイエスキリストは、三日目に蘇り、神の御業を示されました。

 

エスは、人間の形をとって地上に現れましたから、車に轢かれるのは痛かったでしょう。車に轢かれるのは怖かったでしょう。

 

それでもなぜ、神は人間として地上にやってきて、私たちを救おうとしたのか。

それは、「神が私たちを愛していたから」です。

 

しかし、多くの人たちは、自分の命を救ってくれた神の愛に気づかずに今を生きていると思います。

 

自分のために身代わりになって死んでくれた人がいること、

その理由として、自分は愛されてるということ。

 

私は、多くの人に、このことを知っていただきたいな、という思いで、

このブログを書いています。

 

しかし、神の愛を知っているはずのクリスチャンである私も、そのことを忘れて、

前述のように神に文句を言ってしまっています。

 

「返事してよ!」

「無視すんなや!」

「何で現実はこうやねん!」

 

別に、神に対して文句を言うことは、悪くないとは思います。

神は、私たちをあえて従順なロボットにしなかったわけですから。

あえて不完全に創造し、物事を選択できる自由意志を与えたわけですから。

 

(アダムとイブが、禁断の果実を食べてしまったのが、人類が最初に経験した、自由意志の間違った使い方と言われています)

 

意図的に作られた不完全な世の中で、不完全な存在で、私は、今日も言ってしまうかもしれません。

 

『アイヘイトユーゴッド。』

(私は神であるあなたが嫌いだ)

 

しかし、そんな中で、神から帰ってくり言葉は、

 

『アイラブユーマイソン』

(私は息子であるあなたを愛している)

 

です。

 

直接その言葉を聞くことはないかもしれません。

時間が経ってからその言葉が返ってくるかもしれません。

 

 

ただし、新年から一週間たち、私がいま改めて感じているのは、やはり、神の愛なのです。

 

不安定の世の中で、同様に不安定な自分が感じるのは、沈黙を突き抜いて訴えてくるこの言葉、

 

「私はあなたを愛している」

 

という無言の響きです。

 

無言ですから、直接聞こえることはできませんが、

それは妻の励ましを通して、また、自分が神について知っていることを通して、

私には聞こえる。

 

 

 

私は、この響きに対して、いつでも耳を澄ませていたい。

 

 

これは、錯覚でしょうか。

または、勘違いでしょうか。

それとも、盲目信仰でしょうか。

 

いいえ、これは、神が私に語りかける言葉なのだと、

私は信じています。

 

 

『愛と宇宙』Love and the Universe

「神とは、イエスキリストとは誰か。」

 

どの知り合いのクリスチャンに尋ねるかによって、返ってくる返事は異なるかもしれません。

 

神の子羊、花嫁、羊飼い、救世主、天のお父さん、友人、etc...

時には、『親分』なんて表現をする方もいるそうです笑

 

聖書でも、ブドウの木や、命のパンなど、様々な表現がでてきます。

 

それはなぜでしょうか。

なぜ、神、もしくは、イエスには様々なたとえ方がされるのでしょうか。

 

それは、神には、さまざまな性質があるからだと思います。

時には、癒し、時には、沈黙し、時には、慰め、時には、救い、時には試練に合わせ、、、

神は、様々な表情を持っております。

 

しかし、共通している神の性質として、『愛』があります。

 

『神は愛なり』 (第一ヨハネの手紙4章16節)

 

そんなこと信じられない、と思うでしょうか。

ー神が愛なら、なぜ自分は今こんなに辛いのか。

ーなぜ、世の中には不条理があふれているのか。

ー神が真理とするなら、なぜ信じている人がこんなに少ないのか。愛をもっと発揮して、信じる人をもっと増やせばよいのに。

 

なぜ、なぜ、なぜ、、、

 

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みなさんこんにちは、

コトワドです。

クリスマスも近づき、街もきらきらと色づいてきましたね。

 

ただ、日々を生きていると、キレイだけじゃない、人間の負の面を見せられることも多くあると思います。

 

それは、人間が作った政治や経済というシステムに限らず、

このブログのテーマである神に対しても、「なんでですか神様!」と

嘆くことも多いかもしれません。

 

しかし、私には思うところがあります。

 

それは、「私の理解、私の解釈、私の推論で神を推し量ることは、できない」ということです。

 

こんなことをいって、私は考えることをただ放棄しているだけではないか、と鋭い方は言うかもしれません。

批判的な思考を捨てて、ただ、盲目的に信じているだけではないかと。

 

 

いいえ、そうではありません。

私は、神を畏れて、神の偉大な力を信じ、それにかけているのです。

 

神を畏れる??

 

あまりピンとこないかもしれませんね。

 

突然ですが、みなさんは宇宙が好きですか。

 

私は宇宙が好きです。

その大きなスケールは、マリアナ海溝の深海とは比較にならないくらい広大で、想像することさえ難しいです。

だからこそ、引き込まれるのです。

 

時間があれば、下のビデオを見てくださいませんか。

 

youtu.be

 

そして、私たちの信じる神は、この大きな宇宙を作った神なのです。

想像しきれなくて当然、だとは思いませんか?

 

(私はこのような動画を見るたびに、頭がくらくらします…。)

 

もし、神が七日ですべてを作ったという前提に立てば、

ただただ、神の大きさに、偉大さに、圧倒せざるを得ません。

そしてこれが、キリスト教の神です。

 

詩編8章によると

『主よ、わたしたちの主よ。

あなたの御名は、いかに力強く全地に満ちていることでしょう。天に輝くあなたの威光をたたえます。...(省略)...あなたの天を、あなたの指の業をわたしは仰ぎます。月も、星も、あなたが配置なさったもの。...(省略)...羊も牛も、野の獣も、空の鳥、海の魚、海路を渡るものも。主よ、わたしたちの主よ、あなたの御名は、いかに力強く全地に満ちていることでしょう!』

 

この個所は、神の創造の業をたたえたものと思います。

 

神の力は、目に見える形で、表れています。

例えばですが、一度、月をじっくりと眺めてみませんか。

星や、枯葉や、宇宙や夕日を、観察してみませんか。

 

 もし何か、心の琴線に触れるものがあるとすれば、それは、物理現象を通して、作り主である神をみているからかもしれません。

 

三浦綾子の小説『塩狩峠』の登場人物、ふじこは、

主人公の永野が持ってきた果物やお花などを見て、以下のように言っています。

 

 「ねえ永野さん、こんなにきれいな色をおつくりになったのは 神様なのね。わたしは神様の絵の具箱がみたいわ。神様の絵の具箱にはいったいどれほどの種類の絵の具箱があるのかしら。」

 

似たような個所として、詩編19章1-4節があります。

『天は神の栄光を物語り 大空は御手の業を示す。

 昼は昼に語り伝え 夜は夜に知識を送る。

 話すことも、語ることもなく 声は聞こえなくても

 その響きは全地に その言葉は世界の果てに向かう。』

 

 

私は神を信頼します。畏怖の念を覚えつつ。

この広大な宇宙を作った神だからこそ、すべてのことは可能であると、信じています。

 

最後にもう一か所、私の好きな聖書の個所を引用させてください。

 

『神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。(ローマ人への手紙8章28節)』

 

冒頭で述べたように、

『神は愛である』というテーゼについて、

納得のいかない方、矛盾を覚えている方もいらっしゃると思いますが、

そういう方は一度、神に「なぜ?」と問いかけてみてはいかがでしょうか。

 

私自身が考える「こうあるべき」という考え方と、

神が考える「こうあるべき」という考え方。

どちらもあると思います…。

 

『主よ、あなたの道をお教えください。わたしはあなたのまことの中を歩みます。

御名を畏れ敬うことができるように一筋の心をわたしにお与えください。』

詩編86章11節)

 

 一人で、心を落ち着かせて、神に向かい合ってみてほしいと思います。

 

「神の存在さえ信じられないのに、話しかけるなんてばかばかしい」と思うかもしれませんが、どうせ無駄にするのは数分間ですよね?

ちょっと試してみませんか。

 

 

私も含めて、読者のみなさんが、自分の価値観、ものさしではなく、

神の判断基準に立てるように、近づけるようになることが、私の願いであり祈りです。

 

今日はここでおわりです。

ありがとうございました。

(物語風) 『変えたい過去』Regret in the past is a drive for the future

みなさんこんにちは、

コトワドです。

昨日の夜は、久しぶりに眠ることができず、

もんもんとした時間を過ごしていました。

どうして、もんもんとしてしまっていたのか。

理由は、過去に対する後悔の念に苛まれていたからです。

その後悔の中身と、それに対する考察について、クリスチャンとしての立場から書いてみました。

いつもとは、スタイルがかなり違い、私の本来のブログの趣旨からはずれてしまいますので、お時間がある方のみ、読んでいただけたらと思います。

物語りなんて、今まで書いたことがなく、見苦しいところがあるかもしれませんが、ご容赦していただけたらと思います。

 

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「あなたには人生で後悔していることがたくさんあります。高校一年生の頃に戻りたいですか?私にはできないことはありません。あなたを、過去におくることができます。」

 

その日の夜、私には神の声が聞こえた。

 

スマホの位置をまさぐり、時計を見てみると1:10。

ベッドについたのが11:30くらいだから、多分2時間弱か。

眠れない夜は久しぶりだ。

その理由は明らかだった。失敗ばかりだった高校時代のことを思い出し、自責の念に駆られていたからだった。

 

その日は、久しぶりに高校時代の旧友に会った日だった。

同じ部活、同じクラスの友達で、友達作りが下手な自分にも、良く接してくれた友人だった。彼と別れた後、私は過去を懐かしく振り返るとともに、恥ずかしい過去の日々や、数々の後悔を苦々しく思い出していたのだった。

 

「戻りたい。」

 

私は神にそう答えた。

 

私には変えたい過去がたくさんあったからだ。

一生懸命打ち込まなかった部活。中途半端だった勉強。不器用で思いを伝えるのが下手だった(そもそも知らなかった)友人関係。もっと楽しみたかった恋愛関係。愛し方を知らなかった家族関係など…。

あげだしたらキリがないくらい。

ゲームと漫画とインターネットにエネルギーを大きく費やして、自分は自分の過去をどうしても肯定的に受け入れられないでいる。

今の知識のままで、今の技術のままで、過去にもどることができたら………。

 

自分はお菓子禁止でも、毎日筋トレ100回必須でも、東大合格条件でも、会う人全てに自分はクリスチャンと伝える条件でも、なんでも飲み込むだろう。それくらい今の自分に対しては自信があった。

 

そう、私は大学生の頃に留学して、一人の女性に出会ってから、良い意味で変わったという自覚があった。

自分の人生で唯一、やり直したくないことがあるとすれば(やり直す必要がないことがあるとすれば)、それは、彼女との関係だろう。彼女は私にいろんなことを教えてくれた。無私になること、神を信じること、神に頼り切ること…。自分に対して、常に不満足で、揺らいだ自己しかもっていなかったが、彼女に出会ってからの自分だけは、肯定的にとらえることができるようになった。彼女自身の姿を通して、私はイエスを見つけ、自分も彼女のようになりたいと、彼女の信じているものを信じたいと思うようになったのだ。そして、私はイエスに出会った。

 

もし私が過去に戻れたとしても、彼女にはまた会いたい。

また一緒に神について語り合い、勉強し、付き合い、結婚し、子供も作りたい。

私費留学でもワーホリでも何でも、絶対に彼女に会いに行くだろう。

 

『ああ、イエス様。どうか、全知全能のあなたの力で、私を高校一年生の初めの日まで戻してください。眠りから目が覚めたら、10年前の、故郷にいますように。代わりに私は何でもしますから。。。』

 

その日、私はその祈りを捧げながら、眠りについた。

 

しかし、起きても、私は社会人三年目のコトワドのまま。

隣には、妻になった彼女がいたままだった。

 

『どうしてですか神様。あなたには何でもできるのに。約束と違うじゃないですか…。』

 

後悔は、辛い。今の自分を苛む。

人によっては、「過去の失敗や、後悔があるから、今の自分がいるんだよ。」という人もいるだろう。それは正しいと思う。過去の過ちのおかげで、同じ過ちを犯さないように人は努力しようとし、変わろうとするのだろう。

しかし、過ちは無いに越したことがないのではないだろうか。

誰しも、人生は楽しみたいものである。幸せを感じたいものである。

私は、もっと勉強を頑張っていたら、もっと人間関係を大切にできていたら、今の人生がもっと楽しいものになっていたという確信がある。

だから、戻りたいんだ。

また、自己中心的な思いだけではなく、家族や友人にイエスの福音を広げたいという思いもある。

 

「しかし。」

自分はここで少し立ち止まる。現実に戻る。

楽しむことが人生において重要であるとすれば、もし過去に戻ることが不可能であるとすれば、自分は、どのようにこの後悔を、未来の幸福に利用していくことができるだろう?

 

自分が「やらなくて後悔していること」を、片っ端からやっていく他ないのではないだろうか。私は今27歳。今までの27年間に勝る、今後の72年間を生きていく他ないのではないだろうか。

 

私の後悔は、そのトップ3を挙げるとすれば、

① 一生懸命勉強しなかったこと

② 自己中心的で、不器用で、人にやさしくできなかったこと

③ テニスに一生懸命打ち込まなかったこと

だろう。

 

今は、学生ではない。なので、優先順位は変わってくると思うが、上記のような、「やらなくて後悔していること」を、「今、やりたいけどやっていないこと」にすり替えて、ベストを尽くしていくしかないのではないか。

 

それが唯一、未来の自分が苦悩して夜眠れなくなるのを防ぐ唯一の方法ではないか。

 

「そうだ。」

私はもう、人生を一瞬たりとも無駄にしたりしない。

無駄な行為は、もう十分にしてきたのだから。

 

じゃあ、今何をしよう?

自分は、今何をしたい?

 

(1). 会社で開かれているコンテストで優勝して、副賞の海外旅行をゲットしたい。

(2). 英語がもっとぺらぺらになりたい。TOEICで満点を取りたい。

(3). クリスチャンとして、夫として、人間として、一人一人の人を、神が愛した目の前の人たちを、もっとよく愛せるようになりたい。

 

この辺が大きなターゲットだろうか。

たくさんのことを一気にやるのは効率が落ちるっていうしね。

 

神様、今日、目が覚めたら、過去に戻ることはできなかったけど、代わりに、今何をすべきかが見えた気がするよ。

ありがとう。

 

 

神様、でもね、今でも、正直に言うと、過去に戻りたい気持ちはまだあります。

たくさんのチャンスを、逃してきたという自覚があるから。

失敗ばかりしてきたという自覚があるから。

正直にいうと、生きなおして、周りの人からちやほやされたいから。

 

でも、神様、あなたは私にこう言っている。

「コトワド、それでいいんだよ。私はあなたのことを愛している。あなたは私の子供だ。私は、完璧な子供をもとめているんじゃない。善い行いや悪い行いは、大事じゃないんだよ。大事なのは、自分の行いを悔い改め、私についてこようとする姿勢なんだ。」

 

ああ神よ。

私にはいろいろな後悔がありますが、あなたに背いた人生を歩んできたことこそ、あなたに気づくことができなかったことこそ、最大の過ちかもしれません。

今は、あなたの愛に留まっていたい。

いつでも、あなたのコトバに留まっていたい。

 

辛いときこそ、後悔の念に苛まわれるときこそ、私は感謝の歌をささげよう。

神よ、悪魔が私を誘惑し、間違った方向に誘惑しようとしたときこそ、あなたの歌を歌おう。

神よ、過去ではなくて、あなただけを見つめよう。

あなたが私に生を与えたもうた。あなたこそ、私が生きる理由。

神よ、私は、貴方たとともに、残りの人生を歩みたいです。

 

導いてください。

もう、後悔はしない。

 

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みなさんはどうですか。

多かれ少なかれ、人生において後悔はあると思います。

相手を傷つけてしまった些細な一言から、相手を死にやってしまったといった大きなものまで…。

 

キリスト教的な世界観では、人間は不完全という前提です。

失敗は、むしろ必然です。

だからこそ、神に頼る必要があるのです。完全な神を。

 

私は、自分の過去に対して後悔する中で、完璧な人生を歩みなおしたいという思いをもって、自分自身が神になろうとしていたのかもしれません。ある意味で。

そして、それは、傲慢さに他ならないかもしれません。

 

神よ、悔い改めます。

私を過去に戻さなかったことに感謝いたします。

 

読者のみなさんも、ここまでお読みくださってありがとうございました☆

信仰実験 Faith Experiment

『信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。』

ヘブライ人への手紙11章1-3節)

 

みなさん、こんにちは。

コトワドです。

前回のブログでは、人は、信じられないから信じないのではなく、

信じたくないから信じないことがある、ということを書きました。

 

今回はその続きで、人の信仰について、書いていきたいと思います。

 

………

 

私がキリスト教について初めて考察したのは、

私が大学受験中に母が進めてくれた小説『塩狩峠』(三浦綾子作)がきっかけでした。

『良い本だから』と勧めてくれたのを覚えています。

 

この本は、1909年(明治42年)2月28日に発生した鉄道事故の実話を元にしていて、主人公の永野信夫が、婚約者がいるにも関わらず、多数の乗客の命を救うため自らを犠牲にした物語です。

永野は、愛と信仰を貫きとおしたクリスチャンでした。

 

母はもちろんクリスチャンではありませんでしたが、小説をよく読み、おすすめのものはときたま私にも紹介してくれることがあったのです。

最初は、キリスト教に関する本とは知らずに読み始めましたが、ストーリーとして面白く、主人公の誠実さや、そこに描かれている愛の美しさに打たれ、衝撃を受けたのを覚えています。

読後に、涙が流れ出てきた経験は、初めての経験だったと思います。

 

感動で、涙がでつつも、読み終えて心から出てきた感情は、憤りでした。

「他の人を救うためとは言え、待っている人がいたのに自殺するなんて、主人公は自分勝手だ」

「婚約者のことを待ち続けて、やっと幸せになるはずだったのに、死ぬなんて…。他の選択肢もあったのではないか」

私は、あんなにも立派な主人公が死んでしまったショックを、怒りに変えて、母に文句したのを覚えています。

同時に、「クリスチャンを増やそうという意図をもって、作者はこの小説を書いたんだ!」と作者に対してなぜか攻撃したのも覚えています。

キリスト教を理解していなかった私は、それくらい混乱して、沸きでる感情をどう処理して良いかわからなかったのでしょう。

 

母は、はいはいとなだめてくれました。

 

………

 

この主人公に限らず、信仰のゆえに生涯をささげた人はたくさんいます。

貧しい人のために献身的に奉仕したマザーテレサや、

生涯の多くの時間を宣教にささげたおなじみのフランシスコ・ザビエル

牢獄の中で、鞭に打たれながらも神を賛美したパウロなど、、、

 

信仰は、死すら辞さないほどの大きな力を人に与えるようです。

 

そして、そのようなストーリーを見聞きした際には、

私たちは「すごいな」と思うと同時に、「なぜ彼ら、彼女らにはそんなことができるんだろう」という問いかけをすることはありませんか。

 

 

私にはあります。

 

私の妻とは、アメリカ留学中に出会いました。

お互い学生で、留学生サークルを通して知り合いました。

そして、その現地の留学生サークルでは、週に一回、聖書を勉強する会が彼女の家で開かれていたのです。

初めのうちは知らなかったのですが、彼女と仲良くなるにつれて、彼女には、親や兄弟から家庭内暴力を経験し、鬱に苛まれた、つらい過去があったことを知りました。

普段の明るく、やさしく、人思いな彼女からは、想像もできない過去でした。

 

その話を聞いて、彼女に興味がわきました。

その当時の私の周りには、辛い過去を経験した人たちが多くいました。

そして、その多くの人たちは、その傷を抱えたまま、ネガティブな感情に支配されている人が多くいたからです。

 

 

それを知っている私には、彼女は強く、そして魅力的に映りました。

「私の周りの友人と、彼女とは、何が違うのか」そんな疑問を持った私は、どうして彼女はそんなに明るくすることができるのか、絶望から立ち上がることができたのか、自分よりも相手を優先して接することができるのか、聞きました。

 

"It's because of Jesus that I changed. (イエスのおかげで、私は変わることができた)"

 

が彼女の答えでした。

 

その時です。

 

私は、心理学を勉強するために留学しましたが、心理学よりももっと重要な、もっと知るべきことがあるのではないかと思いました。

私の生涯において、もっとも知るべきこととは、なぜ自分がここにいるのか、という問いではないか。そして、その問いが、神によって解を与えられるのであれば、私は、神について知らなければいけない。

また私は、彼女の魅力について、やさしさについて、強さについて知りたかった。

そして、そんな彼女を理解するためには、聖書と、イエスキリストについて理解しなければいけないことを知りました。

 

そこからです。

私は、授業にもいかず、聖書を読んだり、クリスチャンの友達と話をしたりして、イエスキリストについていろいろと学び始めました。

祈りも何となくのイメージで手を合わせてそれっぽく祈り始めました。

 

 

私は、彼女のことをもっと知りたかったから、彼女の信じる神のことを知る必要があったのです。

 

そして、学べども学べども、一向に疑いは晴れず、クリスチャンになった自分なんて、とてもじゃないけど想像はできなかったです。

 

祈りの中で、神の声を聞かせてくださいと、何度願ったか…。

そうしたら、信じることができるのに…。

 

苦しかったです。

自分の中に、疑いばかりがあり、神を信じるに足る確固としたものはなかったから。

信じたいのに、信じられないと思っていました。

 

しかし、その時に知ったことは、敬虔なクリスチャンでさえも、

すべての問いに答えを持っているわけではないということです。

 

前提として、神という超越的な存在のすべてを知ることは、人間には到底不可能だということです。

 

ならばどうすればよいのか。

神について、どの程度まで知れば、信じることができるのか。

 

ここで、前回のブログに戻りましょう。

私は、『信じないのは、信じられないからではなく、信じたくないからだ』ということを書きました。裏を返せば、信じるには、「信じたい!」という気持ちが重要だということです。

 

当時の私は、信じたい!とは思っていましたが、本当は、心の中では、信じることを拒否する気持ちもありました。

自分がクリスチャンになって日本に戻った際に、友人や家族など、周りの人にどう思われるか怖かったからです。

 

「宗教を信じるって、なんだか心の弱い人か、だまされやすい人が信じるのではないか」

正直に、私自身もそう思っていました。

そして、心の中では、そのリスクを抱えてまで、クリスチャンになりたいとは、思っていなかったのです。

 

しかし、自分の中で、自分自身を変えたいという思いはありました。

自分中心に物事を考える自分ではなく、彼女のように、人を大切にできる人に、

相手を愛して、自分のことも愛せる自分になりたいと思っていました。

私は、彼女を通して、変わりたい自分自身についても見ていたのです。

 

そして一度、信じてみようと思いました。

神の存在を直接信じることは難しい、いやできない。

しかし、神の存在を信じて、命をささげた永野信夫や、マザーテレサ、フランシスコザビエルがいる。

神の存在を信じて、実際に命を得た妻がいる。

 

間接的にでも、その人たちを通して、私はイエスを見ました。

 

そしてもし仮に自分が間違っていたとしても、神がいなかったとしても、別に失うものは何もないし。。。

その時はその時で、クリスチャンを辞めたら良いだけだし。。。

 

なんとも不真面目な姿勢でしたが、

自分が人間として成長できるなら、彼女のように、人を大切にすることができるのであれば、それで良いのではないかとも思いました。

 

私と妻はこれを、"faith experiment (信仰実験)"と呼びました。

とりあえず、一度信じて、やってみよう。

日本に戻った後の、周りからの目は怖いけど、一度神を、信じてみようと思いました。

 

………

 

そして4年半が経ちました。

私は今でもクリスチャンです。

昔持っていた疑いのいくつかは解消されましたが、新しい問いや、疑問点はまだまだたくさんあります。

しかし、今思うことは、『疑問点は、いくら解消されたところで、キリがない』ということです。

永遠の存在の神を、私の知識や経験で推しはかり、100%理解しようとすること自体が、傲慢であると思います。

作られた存在である私たちが、作った存在である神を完全に理解することは、できないでしょう。

 

しかし、これは諦めではありません。

 

聖書では、以下のように書かれています。

 

『味わい、見よ、主の恵み深さを。いかに幸いなことか、身もとに身を寄せる人は』

詩編34章9節)

 

神を信じ、不確定の中でも追い求めていく中で、イエスを経験することはできます。

それを偶然と呼ぶのか、奇跡と呼ぶのか、それは体験した一人一人が決めることですが、イエスを追い求めることは、自分の人生における慰めと、強みになっていると感じます。

 

私は妻の存在を通して、『信じられないから信じない』から、

『信じられないところはあるけど、信じる』に舵をきりました。

 

その実験は、まだ続いています。

そしてその実験は、楽しく、難しく、時にはいらいらする、しかし、希望をもたらすものであることを感じています。

 

塩狩峠』の三浦綾子ではないですが、読者のみなさんも、この旅路につかれることを私は願い、祈っています。

 

次回は、イエスの愛について、語りたいと思います。

さようなら。

 

信じたいけど、信じたくない Want to believe... or not?

宇宙を作った神の存在、

地球を沈めたノアの大洪水、

奇跡で病が癒された人々、

一度死んで、三日目に蘇ったイエスキリスト、、、

聖書には、読んでびっくりするようなストーリーがたくさん描かれています。

もしそれらの出来事を「私は信じている!」といったら皆さんはすごくびっくりされますよね?

 

 

 

…私はすごくびっくりしました。

 

進化論ではなく、創造論を本気で信じる大人たちがたくさんいるということを初めて知ったのは、まだ高校生の時だったように思います。

そのテレビ番組では、ケンタッキー州の『創造博物館』が特集されており、自分とは価値観が全く違う人たちが紹介されておりました。

人類の祖先がアダムとイブから始まったこと。生物は進化して生まれたのではなく、初めに神によって創造されたということ。

 

私は、反骨心を覚えるとともに、面白いな、と思ったことも覚えています。

「世界には、自分とはまったく違う考え方をもっている人たちがいるんだ」

そして、「将来は、いろんな価値観を持つ人たちと交流してみたい」

自分の中で、留学、という選択肢が芽生えるきっかけとなった出来事でした。

 

………

 

 みなさんこんにちは、コトワドです。

今日は、『信じること (もしくは信じないこと) 』について考えてみたいと思います。

 

よく、目に見えないことは信じられない、と聞きますよね。

私たちが重力を知っている (信じている) のは、りんごを手から離したら、それが地面に落ちるからですよね。つまり、観察して、証明できるからだと思います。

 

神の存在は?

目に見えないですよね。

だから信じられない、といった結論を導くのは、よくわかります。

ただし、信じられないことの理由として、「観察して、証明できないから」だけを

理由に挙げるのは、少し何かが欠けている気がします。

 

例えば、もし高名な科学者が、

1. ノアの大洪水の証拠を発見したり、

2. イエスが一度死んで、三日目に蘇ったという客観的な事実を発見したり、

または、

3. テレビの前で、祈りによって病が治る瞬間を目撃したり、

したら、皆様はどのような態度をとるでしょうか。

 

おそらくは、「そんなの信じられない!」と思い、

逆に、それらの証拠が、正しくない証拠を探し始めるのではないでしょうか。

 

それはなぜでしょうか。

 

私が思うのは、

「信じることができない理由は、証拠がないからや、証明ができないから、

ではなくて、信じたくないから」だと思います。

 

もし、自分が神の存在を認めてしまったら、

多くの束縛や、周りからの視線が気になるからかもしれません。

 

例えばですけど、

「周りの人から、クレイジーに思われてしまうのではないか」

「毎週、教会やお祈りをしなければいけないのではないか」

「今のような快適な生活を続けられなくなるのではないか」

「もし信じたら、○○しなきゃいけない/○○してはいけない」

 

あなたが信じようとしない理由は、もしかしたら本当は、

「証拠がなくて信じられないから」というよりは、信じることによって変わる自分の生活から背を向けたいからではないですか?

 (少なくとも部分的には)

 

「神の存在」に、なんとなく意識を払いながらも、

本当は神の存在を認めたくないのではありませんか。

 

私はそうでした。

 

今でも、都合よく神の存在を否定したくなることはあります。

道で人とぶつかってカチンとしたときや、自分の中でやましい気持ちがわいたときなどは、自分のことを恥じる代わりに、すべてを知っている神の存在を忘れようとします。

 

一度信じると、自分の中で悔い改めをしなくてはならなくなるから。

 

神を信じるのかどうかで、自分の生き方は圧倒的に変わります。

圧倒的に、変えなければならなくなります。

そしてそれは、時には不都合な真実のように思われます。

 

しかし、不都合な真実に直面したくないから信じたい、という理由は、真理から逃げているだけのように思います。

自分の生き方を変えるのが、怖いだけのように思います。

 

私は、何か健全な信仰や信念を持つ上では、客観的で科学的な事実に並行して、それを信じたいかどうかといった動機も、同じくらい重要な役割があると思います。

 

………

 

私は、怖かったです。

「大切なのは、信じられるかどうか(=客観的な事実)、ではなく、信じたいかどうか(=動機)」という言葉を本で読んだときに、はっと覚えるのと同時に、胸がどきどきしたのを覚えています。

 

しかし、聖書の教えはgood news、良い知らせと言われています。

信じることは、別に何も怖いことや、不都合なことばかりではありません。

聖書は、素晴らしい神からのラブレターとみることもできます。

 

次回以降は、どうして私が信じようと、信じたいと思ったのか。

信じたいけど、信じることができないと考えている人には、どのような言葉を伝えたいのかを、書いていけたらなと思います。

 

「御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。悪を行うものは皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために。」(ヨハネによる福音書3:18-21)

 

それでは、また次回お会いしましょう。

 

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The existence of God, who created the whole universe.

Global flood caused by God in times of Noah.

People that were actually healed miraculously.

Jesus Christ who was once dead and then came back to life...

In the Bible, there are so many stories that may startle you when you read it for the first time.

I'm sure that you will be equally suprised if I tell you "I believe (in them)."

 

 

I was.

 

It was when I was a high school student that I first knew there are people -- that are actually "adults" who believe in creationism, not evolution.

In that TV program, "Creation Museum" in Kentucky was introduced, and many people who had different values than me were interviewed.

Our life origins from our ancestors called Adam and Eve. Lives were born not through evolution but through God in the begining.

 

My initial response was "fishy!!" ...as well as finding it interesting.

"There are people in the world who have totally different perspectives from me."

"I want to communicate with people who have different values and opinions in the future."

 

This was one of the moments when "studying abroad" came to my plan.

 

………

 

Hi, I am Kotowado.

Today I would like to discuss "believing (and not believing)."

 

Some people say "if i cannot see it, I cannot believe it."

We know that there is gravity on earth because we see an apple falling onve we release it from our hand -- that is, we can observe and prove it.

 

God's existence?

We cannnot see.

It sounds pretty reasonable to say that they cannot believe in God because they cannot see.

However, I feel like there is something missing when they attirbute not beliving in God to the fact that they cannot see it.

 

For example, if very famous scientist conclude that there are reliable evidences that...

 A) Noah's flood actually happened,

 B) Jesus rose after three days of death 

 C) many people were healed by prayers.

What attitude would you have about it?

 

Maybe you might say that "I cannot believe it!" and start to find other proofs that contradict to them (if you are curious enough not to just dismiss them).

 

Why is that?

 

Because you have to change if you believe.

And you are afraid of those changes that are accompanied by believing in them.

 

"What my friends and family think of me if they know that I believe in God!?(especially in Japan)"

"I don't want to waste my time on Sunday morning by going to Church!"

"I am already comfortable with my life right now, no thanks."

 

I'm sorry if I'm wrong but the reason why you cannot believe in God is not because "you cannot" beleive in God but because you "don't want to" believe in God, isn't it?

 

(at least some parts of the reason?)

 

………

 

I was scared when I first heard of this.

I still remember my heart started panting at that time.

 

They say that it is not just "inconvenient truth" that are written in the Bible.

Gospel actually is "good news."

 

So why is beliving in God good?

Or why do some people regard Bible as a love letter from God?

 

After this, I want to continue writing about why I decided to belive in God.

I want to write some messages for those who says they want to believe but those who are finding it difficult to have the first step of believing.

 

See you soon.

 

"18 Whoever believes in him is not condemned, but whoever does not believe stands condemned already because they have not believed in the name of God’s one and only Son. 19 This is the verdict: Light has come into the world, but people loved darkness instead of light because their deeds were evil. 20 Everyone who does evil hates the light, and will not come into the light for fear that their deeds will be exposed. 21 But whoever lives by the truth comes into the light, so that it may be seen plainly that what they have done has been done in the sight of God." (John 3: 18-21)

 

 

初めに言葉ありき。In the beginning was the Word

「私の発する一つ一つの言葉が、自分の内から出るものではなく、

あなたから来るものでありますように。」

  

 

・日常生活の中で、ずっともやもやしていたことに「あっ」と気が付いて新たな考え方を得ること、

・ネット記事を読んだり、読書をしたりしている中で、「この考え方は良いな!」と思って、心の中に大切にしまっておこうと思うこと、

みなさんはありませんか?

 

私にはあります。

 

このブログは、私自身が大切にしたいと思う、考え方やアイデアを徒然なるままに書き留めて置くための、少し自己満足的なブログです。

そして、そのトピックは、「キリスト教の唱える神」と、「イエスキリスト」に関するものです。

 

「え、宗教に関するブログ?」⇒ 「はい、そうです (クリスチャンは、自分たちが宗教を信じている、とは考えていないですが、、、)」

「自分には関係なさそう…」⇒ 「まあまあそう言わずに…」

「なんだか難しそう」⇒ 「でも大切かもしれないですよ」

「神なんて信じられないよ」⇒ 「私もそうでした。よく分かります!」

 

このブログは、あなたのような、今現在、「神を信じていない人」をターゲットに書きたいな、と思っています。

私自身、懐疑的な者 (= doubter) として、の立場から。

 

 

初めまして。

コトワド と申します。

2015年5月27日、クリスチャンになる決意をしました。 

 

アメリカに留学中、

一人の女性に出会い、彼女のものの考え方に惹かれ、そして彼女自身に惹かれ、

私も彼女のようになりたいと感じ、それまでの、見えているものしか信じない人間から、

見えないものを信じてみようと思う人間になりました。

 

しかし、決意をしたものの、再度疑って、また信じて、でもまた疑っての繰り返しで、今の自分がいます。

現在進行形で、今も神の存在を追求しています。

 

私は、科学者でも、神学者でもありません。

普通の社会人です。

特別に知識が豊富なわけでも、何か優れたカリスマを持っているわけでもありません。

 

そんな平凡な私が、キリスト教の唱える神について、日々学び、

気づいたことを、ここにシェアしていけたらなと思っています。

 

神様の「言葉」について、一緒に学んでいきませんか。

 

それでは、始めましょう。 

 

疑う人から信じる人へ。

 

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"May each word that I speak will be from your spirit, not from myself."

 

On day-to-day life, you might encounter something like...

"Aha!" moments when you find out the solution of what has been buggin you for a long time,

or perhaps, coming up with really good ideas that makes you want to keep it in your special place of your heart after reading books or blogs.

 

I do.

 

And this blog is about writing those moments down and keep them in record.

And the topic is about "God" and "Jesus Christ."

 

【Qs and As】

"Oh, so this blog is about religion?"

 ⇒ "Yes, it is (even though christian do not actually think that christianity is religion)."

"I don't think this has something to do with me."

 ⇒ "Now, please stay a little longer with me."

"It sounds very difficult for me."

 ⇒ "But it may be important?"

"I cannot believe in God."

 ⇒ "I understand. Because I was there, too."

 

This blog is for someone "who do not believe in God" or "who doubt its existence" ― someone like you.

 I, myself, being as a doubter.

 

 

It is nice to meet you.

I am KotobaWord.

 On May 27th, 2015 I decided to be a christian.

 

When studying abroad to the U.S.,

I met a woman, and was attracted by the way she thinks, and then attracted by herself,

wanting to be like her, and then wanting to decide to believe in something that I cannot see.

Back then I only was believing in something that I could see.

 

However, even after I decided to believe in God, I sometimes come back to my old doubting self... and then started to believe again, and then doubt again, repeat, repeat, repeat...

 

That's leading where I am now.

I now have a bit more certainty about my faith and about God,

but I'm still seeking him and his existence.

 

 

I am not eihter a scientist or theologian.

I'm just a ordinary business man.

 

I do not have particulary a lot of knowledges or have good charisma.

 

I am just a ordinary man.

And it is from that point of ordinary view that I would like to share ideas about God that I learned and realized from my day-to-day life.

 

This blog is for you.

And my wish is that you come to have interest and the "word" of God with me.

 

Let's begin.

 

From being a doubter to a believer.