『美しい不完全さ』 Beautiful Incompleteness

みなさんこんにちは、

コトワドです。

 

前回のブログでは、神を中心に生きること。

神の時間の中で、自分の時間が使われることについて書きました。

 

今回はそれに関連して、

少し、クリスチャンの生身の話をさせて下さい。

 

 

皆さんは、クリスチャンと言えば、

常に神のことを意識していて、聖書を毎日読んで、

祈りを欠かさず行って、いつも神のことを賛美している、

といったイメージをお持ちでしょうか。

 

一部の敬虔なクリスチャンでは、その通りかもしれません。

そのような方たちの信仰は、本当にすごいなと尊敬します。

神からの、大きな祝福だとも思います。

 

しかし、そのような、常に大きな信仰を一定に保ち、

ピュアな心で神を崇拝し続けることは、あまり、現実的ではないかと思います。

 

ほとんどのクリスチャンも、

神の存在を時には疑い、祈ることが嫌になり、

神のことを無視した生活をすることがあるでしょう。

 

それはなぜでしょうか。

 

 

一言でいうと、

それは、私たちが「人間だから」だと、思います。

 

では、人間とは、何でしょうか。

 

私が思うに、人間とは、

不完全で、不安定な存在だと思います。

 

罪に汚れ、過ちを犯し、客観的に見たら、

美しい点よりも、醜い点の方が多いかもしれません。

 

ではなぜ、神はそのような人間を作ったのでしょうか。

なぜ、欠点がなく、間違いを犯さない存在に作らなかったのでしょうか。

 

全ての人が神のことを初めから知っており、

コロナなどの病にも免疫があり、戦争やテロを起こさせず、

全ての人に愛を示すことができる存在にしなかったのでしょうか。

 

 

 

 

これは、難しい問いだと思います。

 

クリスチャンによっても意見が分かれるか、

考えることそのものを放棄する方もいらっしゃるかもしれません。

 

その理由は、人間の視点と、神の視点が、

あまりにもかけ離れているからでしょう。

 

 

 

 

これはあくまで、私の推論にすぎないのですが、

「神は何に価値を置くか」が、重要なのではないでしょうか。

 

全知全能で、すべてのことが可能な神は、

私たちから、何を求めているのでしょうか。

 

二つのケースを比較してみて下さい。

 

(1) 完全で、すべてのことを理解して、納得したうえで人間が言う

「神よ。私はあなたのことを100%理解している。だから、あなたのことを信じる」

 

それとも、

 

(2) 不完全で、何が正しいか分からないながらも、

無我夢中で神を追い求める中ででてきた「神よ、あなたが正しいのかどうか分からない。本当にいるのかどうか分からない。でも、あなたのことを信じる」でしょうか。

 

私は、後者の方が、重みがあるなと思うのです。

神の胸にも、ぐっとくるのではないでしょうか。

 

 

では、そのように、あえて人間を不完全に作り

愛を「自然に選ぶもの」から「選択する」ものにした神は、

結果として、戦争やテロをも許しているのであれば、

自分勝手な神として、 凶弾されるべきでしょうか。

 

その解釈は、読者の皆様にお委ねします。

 

 

 

――――――――

 

不完全とは、ある意味では、美しいのかもしれません。

 

確かに、100%事実と分かっているものに対して、新たに信じる!と言うことには、

どんな価値があるのでしょうか。

それは恐らく、科学がやれば良いことでしょう。

新薬の開発や、4Gから5Gへの移行、方程式の発見など…。

 

別に、『100%の世界』に、私たちの信念まで、入れ込む必要はないと思いますし、

現実的でもないと思います。

 

私たちは、分からない中でも、何かを信じ、

汗をかきながら真実を追い求める存在に作られたのではないでしょうか。

 

その真実が、カルト宗教に向けられたり、

ある特定の人間に向けられたりしたら、

それは非常に不幸なことだと思いますが。。。

 

(そこのセキュリティネットは、

神に作ってほしかったと思います笑)

 

 

もし、「敢えて」不完全に作られた、という仮定が正しいのであれば、

私たちは、どういった態度をとるべきでしょうか。

 

第一に、知っているふりは、やめるべきかもしれません。

 

世の中には、知っていることと、知らないこと、どちらの方が多いのでしょうか。

それはもう、圧倒的に知らないことの方が多いでしょう。

 

古代ギリシャソクラテスも、「無知の知」という言葉を用いて、

「知らないことを知っている」という状態を、概念化しましたよね。

 

宇宙の広さや始まり、人間の今の形はどこからきたのか、

前回は本当に猿だったのかなど、今でも、本当のところは分かっていません。

 

ソクラテスのような偉人でさえも、自分は何も知らないと言っているのです。

私たちも、安易な自己満足にごまかされるのではなく、

自信を持って、「自分は知らない」と、言える勇気を持ちませんか。

 

第二に、このように、自分は多くのことを知らないと認めることと、

神を信じることとの間には、矛盾があるのでしょうか。

 

 

みなさんは、どう思いますか。

 

 

 

 

質問の回答からはずれるかもしれませんが、

私は、「無知の知」の姿勢が、神の探求へと向かう姿勢は、

むしろ、自然なものかなと思います。

 

人は、不確かであるからこそ、

何かしらの確かさを求めるものではないでしょうか。

 

それはちょうど、

一人だとさみしいから相手を求めたり、

お腹がすいているから、ご飯を求めたりするように。

 

 

そして、探求したことの結果として、神を信じるかどうかを選択することは、

その人の自由でしょう。

 

 

それでは、最後に、聖書では、どのような人が神を信じるといっているでしょうか。

引用させてください。

 

 イエスに触れていただくために、人々は乳飲み子までも連れて来た。弟子たちは、これを見て叱った。しかし、イエスは乳飲み子たちを呼び寄せて言われた。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」   (ルカによる福音書 18章15-17節)

 

子どのような人が、神の国を受け入れる??

 

哲学者のように、あれやこれや考え、黙想し、思索し、ある一定の境地にたどり着いた人が、神に到達するのではないでしょうか。

 

そうではないようです。

 

別に神ではなくても、サンタクロースや、妖精や、おばけなど、

子どもは、いろんなことを、時には目を本当にきらきらさせて、素直に信じますよね。

 

それは別に、証拠があるからではありません。

論理的思考能力がない子どもにとって、

必要なのは証拠ではなく、想像力だけです。

 

絶対的な神からすれば、不完全な私たちは、大人であっても、しょせんは幼子のように映っているのかもしれませんね。

私たちが科学という物差しを使って、いろいろなことを証明しようと試みたとしても、それは、神のスケールからすると、

子どもがビーチで、砂が水にぬれると固まるという特性を生かしてお城を作ろうとしているようなものでしょうか。

 

科学を駆使し、どう真実を探求していったとしても、神の知には、とうに及ばないのでしょう。

 

そして神は、幼くて不完全な私たちに、知っているから信じるのではなく、

知らないながらも、好奇心いっぱいで、わくわくした気持ちで、信じてくれるのを、

待っているのではないでしょうか。

 

みなさんは、どう思われますか。

 

『自分の時 v.s. 神の時』 My v.s. God's Hour

ビルの二階から、

下の交差点を歩ている人たちを観察する。

 

人を待つ人。

早足で歩き去っていく人。

ペアでおしゃべりしながら歩く人。

 

無表情の人。

怒っている顔の人。

真剣にスマホで会話している人。

楽しそうな表情の人。

 

それぞれの人には、それぞれのストーリーがある。

みんな、どんな人生を生きているのだろうか。

 

何を目的に生きているのだろうか。

それとも、特に目的などは意識せず、ただ、毎日を生きているのだろうか。

 

私は考える。

 

もしそうだとしたら、辛いなと。

 

まるで、無地の、真っ白なピースを完成させようとしているような。

ピースを埋めていったとしても、図は何もない。

 

達成感はあるかもしれない。

しかし、感動はない。

 

 

そもそも、人生に目的はあるのか。

頑張って生きて、人間関係や、仕事でのキャリアを積み上げていったとして、

何の図を、私たちは完成させようとしているのか。

 

 

私は、なぜ、今ここに存在しているのか。

 

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皆さん、こんにちは。

コトワドです。

 

皆さんには、「座右の銘」というものはありますか。

普段から、大切にしたい考え方や、好きな言葉など、

いろいろとあるかと思います。

 

私は、「とりあえず何とかなる」という言葉が好きで、

普段の仕事でもそれを信じながら、仕事していることが多いように思います。

心に余裕が生まれ、周りにも優しく接することができるようになりますので、

良い言葉だなと思います (そして、実際に、大抵のことは何とかなっています)。

 

毎日の仕事が楽しいです。

 

また、クリスチャンとして、大切にしたいと思う考え方があります。

 

それは、「この世界は、別に自分を中心に回っていない」ということ、

言い換えれば、自分はただ、神によって用いられる歯車の一つに過ぎないということです。

 

一件ネガティブに聞こえるかもしれませんが、私はこの考えを、

前向きで積極的な気持ちで受け入れていることができるように感じます。

 

 

もともとも私は、

「自分がもっと頑張らなきゃ」、「もっと成長しなきゃ」、

「周りから認められなきゃ」、「周りの人を幸せにしなきゃ」

と、あたかも自分が世界の中心にいて、

自分が世界を良いように変えていく必要があると感じていました。

 

自分で考え、計画を練り、どうしたら、自分の存在を大きくして、

この世に働きかけていくことができるのか。

それが、大きな問いでした。

 

自分が中心の、考え方でした。

 

そして、正直、そのような考え方は非常に楽しく、わくわくしました。

頑張れば頑張るほど、自分にリターンが返ってくるのですから。

非常にシンプルな生き方でもあると思います。

 

・頑張る⇒認められる⇒幸せ

・たまに休憩する

・もっと頑張る⇒もっと認められる⇒もっと幸せ

 

ただ前だけを、見ていました。

 

………

 

しかし、今ではクリスチャンとして、少し違った考え方を持つようになりました。

二つの聖書の個所を、紹介させてください。

 

エスは皆に言われた。「私について来たいものは、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、私に従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、私のために命を失う者は、それを救うのである。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の身を滅ぼしたり、失ったりしては、何の得があろうか。」 (ルカによる福音書9章23-25節)

 

「自分の十字架」とはなんでしょう?

これは、神の御心に従順に歩む、ということの比喩表現として用いられています。

まるで、夏目漱石の言う「則天去私」のようですね。

 

さて、あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座についておられます。上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい。あなたがたは死んだのであって、あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているのです。...(中略)...また、キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。...(中略)...そして、何を話すにせよ、行うにせよ、すべてを主イエスの名によって行い、イエスによって、父である神に感謝しなさい。...(中略)...何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心から行いなさい。あなた方は、主キリストに仕えているのです。            (コロサイ信徒への手紙3章1-24章)

 

クリスチャンは、イエスを信じたならば、一度死んだものとして、

すべての行動を「神のため」というベクトルに向け、

日々を過ごすようにということが書かれています。

 

 

例え、歯を磨くときでも、床を掃除機で掃除するときでも、

花を育てるときでも、誰かと一緒にご飯を食べるときでも、、、

 

「神よ、今この瞬間をあなたに捧げます。私のためではなく、あなたのために、用いてください」と祈る。願う。

 

自分という人間は、あくまで神の計画の一部にしか過ぎないことを理解し、

ただ、神の望むままに用いられることを願う。。。

 

そのような生き方は、当初、私にとってはぎょっとする考え方でした。

いちいち神を意識するのは、精神的にも大変そうだし、

自分の欲求や、自分の計画や、自分の感情までも無視して、ただ神に従うなんて、

「まるでロボットのようだ」と。

 

 

しかし、聖書的な前提に立つのであれば、

宇宙を作り、地球を作り、生命を創造したのは神です。

そして、そのような神は、どのような性格を持ってたのでしょうか。

 

みなさんの周りにいる、優しい人を思い浮かべてみて下さい。

 

大親友のAさんですか?

それとも、いつもお土産をくれる課長のBさんですか?

近所の、野菜をいつも分けてくれるCさんでしょうか。

 

聖書の神は、その方よりもずっと優しく、慈愛に満ち、

あなたのことを愛しています。

 

だから私は、安心することができます。

 

エスは、誰よりも優しく、

誰よりも力強く、

誰よりも頭が良く、

誰よりも信頼できます。

 

だから私は、喜んで自分の十字架を背負います。

 

私は、コトワドが、自分という人間が死んだつもりで、

ただこの人を、自分の人生の中心に置くことができます。

 

それは丁度、無力でまだ幼い子どもが、ただ従順に、愛する母親に付き従っていくように。

幼い子どもは親が信頼できることを知っています。

人参を食べたくはなくても、母親が食べさせようとすれば、

それは自分にきっと良いことだと知っているので食べます。

叱られた際には、自分が本当に悪いことをしたんだと、信じます。

 

いつからでしょう。

世界の中心が、母親から、自分に代わるのは。

 

………

 

私は今、生きています。

そして私は、神のためだけに生きています。

私が、自分の人生で仕えているのは、イエスだけです。

 

エスだけが、自分の生きる目的です。

 

私の人生は、

直接的には、職場の上司のためではなく、妻のためでもなく、友人のためでもなく、

家族のためでもなく、自分のためでもありません。

 

しかし、私は今、ここに生かされています。

家族を与えられ、妻と子を与えられ、仕事を与えられ、仲間を与えられ、

ここに存在しています。

 

何も持たずに生を受け、神に導かれ、今ここに存在してことには

意味があるのでしょう。

 

そして、この場所で、私の周りの人たちを愛する中で、

神のことも愛することができていけば、それに勝る幸せはありません。

 

 

最後に一つ、神のしもべとして生きる中で、

大きく変わったことがあります。

 

それは、平安の中に生きることができること。

 

以前、世界の中心に自分がいたときには、不安がありました。

 

「自分が成長しなければ、」

「自分がパートナーを守らなければ、」

「自分が家賃を払わなければ、」

 

しかし、私の人生は、私よりも、何よりも大きな存在によって回っていることを知ることで、私はただ、その流れに身を任せることができます。

 

 

私はただ、神の器として、神の望むように生きる。

 

そこにはエゴはありません。恐れもありません。

神の愛と、力と平安が満ちているのですから。

 

私は今日も祈る。

 

『神よ。私は、私の人生をあなたに委ねます。

神の時の中で、自由に使われますように。』

 

『道』 The Way

進み「たい」方向と、

進む「べき」方向。

 

自分には、今、二つの道が見える。

 

時には、その道が重なり合っていることもあるが、

そのような幸せなことはそうそうなく、

逆の方向を向いていることがほとんどだ。

 

時には、「べき」を選ぶことはできるし、

後からそんな自分を肯定することもできる。

 

ただ、「たい」方向を選んできたことの方が多いだろう。

そして、自己肯定はできないので、自己嫌悪に陥るか、

そもそも、「べき」は、それほど重要ではなかったのではないかと、

自己を正当化する。

 

そうすると、次に「べき」を選ぶ可能性は、

更に低くなる。

 

 

さあ、どうしよう。。。

 

 

 

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弱い自己、不安定な自己、嘘つきな自己。

 

私は、弱い。

 

私は、頼りにならない。

 

ならば、頼りになるものを探そう。

 

普遍的な、盤石な石を。

 

それはどこにあるのか。

 

 

ホリエモン

宗教?

人生の先輩?

自己啓発本

Youtuber?

 

 

それらはしょせん、人間か、人間の手によって作られたもの。

私よりは強かったでしょう。

私よりは偉大だったでしょう。

私よりは確信していたでしょう。

 

ただし、人間の手に、確信を掴むことははたしてできるのでしょうか。

 

 

常に信頼できるものとは。

常に確信できるものとは。

常に変わらないものとは。

 

それは、私たちが作ったものではなく、

私たちを作ったものではないでしょうか。

 

私は、「変わらないもの」を、追い求めたい。

 

 

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みなさんこんにちは、

コトワドです。

聖書を引用させてください。

 

いささかも疑わず、信仰をもって願いなさい。疑う者は、風に吹かれて揺れ動く海の波に似ています。そういう人は、主から何かいただけると思ってはなりません。心が定まらず、生き方全体に安定を欠く人です。

(ヤコブの手紙1章6-8節)

 

「疑うな」と。

疑うことによって、生き方に安定さが失われてしまうと、この聖書個所は言っています。

また、私の尊敬する牧師先生でも、『疑うことは罪である』とおっしゃっている方もいます。

 

しかし、doubter である私には、それはできません。

 

「神を信じる」と、一度は宣言するものの、神や聖書の存在を忘れ、または、

忘れたふりをして、「べき」の道から、「たい」の道へと、

道を踏み外したことは、何度あるでしょうか。

 

 

『オール オア ナッシング』

 

信仰の道とは、本来であれば、ゼロかイチの世界ではないでしょうか。

「信じる」とは、そういうことではないでしょうか。

 

私は、なんと、偽善的な生き方をしてきたことでしょうか。

 

そして、そんな私の生き方は、確かに安定を欠いている。

 

 

………。

 

 

しかし、自分を、連れ戻してくれる存在がいる。

 

「コトワド、そっちの道じゃないよ」と。

 

そう言って、気づくと、私の手を握って、正しい道へと導いてくれる存在がいる。

 

私が、「たい」の道を選ぶたびに、何度でも。何度でも。

 

 

そして、何度でも。

 

その存在は誰?

 

その存在は、半分は、私やあなたと同じ、人間です。

痛みを知り、苦楽を知り、誘惑だって経験しました。

涙を流すことも、あります。

 

 

もう半分は、神です。

愛と優しさに満ちている。

いつ会っても変わることのない、安心感がある。

 

それはまるで、

『〇〇さんは、変わらないね』って、昔からの友達に会った時の安堵感、

何だか心がほっとするような感じ。

 

 

私自身の弱さから来る不安定さと、

人間が作った、世の中の不完全さと、

 

その中で揉まれながら、私は生きる。

 

私自身が、誘惑され、道を踏み外したことは何万回。

私以外の人が、道を踏み外したのを見て、辛く感じたことも、数えきれない。

 

 

そのたびに、私は戻りたい。

 

変わらない、あの人の元へと。

 

不安定な世界で、その人だけは不変。

 

その人だけは、信頼できる。

 

私を、正しい道へと導いてくれる。

 

エスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。

ヨハネによる福音書14章6節)

 

 

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道に迷うという経験は、誰にでもあると思います。

その時にみなさんはどうしますか?

 

恐らく、近くの方に道を聞くか、

マップのアプリを使用するかと思います。

 

 

人生の道に迷った際にはどうでしょうか。

 

恐らく、人生の先輩に話を聞いてもらうか、ツイッターを見るか、

本を読むのではないでしょうか。

 

 

私は、 右手を、上にあげたい。

 

それは、大切なあの人に、道案内をしてもらうため。

 

自分で何とかしようともがくのではなく、

無力な自分を差し出し、ただ、あの人の声を聞くため。

 

 

私は、ただの私に過ぎないですが、

信頼できる、確かな存在がそこにある。

 

弱い人間であり、同時に、強い神がそこにいる。

私や、みんなの手を引こうとしている。

 

私は、ただ引かれていたい。

 

ただただ、神の愛の海に、おぼれていたい。

 

 

What is your right hand for?

 

あなたの右腕は、何のためにありますか?

 

『問い』Qs

――

それはまるで、完成しないパズルのよう。

 

なぜでしょう。

問いが尽きないのは。

 

それは、あなたに遥かに劣る存在として作られたからではないでしょうか。

 

限界のある自分の脳みそで考える。

しかし、答えは見つからない。

 

それでも、あなたは言う。

「信じなさい。ただ私を信じなさい」と。

 

私はつまずき、あえぐ。

「私には限界があります。あなたが私に設定した限界が」と。

 

 

――

 

そして見えなくなる。

視界がまっくらになる。

 

「すべては、嘘だったのか。。。」

 

撤退し、もとの生活に戻ろうとする。

しかし、なぜだか気力がわかない。

何かが欠けている気がする。

 

 

 

ここはどこか。

自分は何をしているのか。

 

楽しさはある。気持ちよさはある。

しかし、安心感はない。

 

ここはどこか。

自分は何者なのか。

 

やることは分かっている。やりたいことだってある。

しかし、充実感はない。

 

ここは、どこか。

 

ワインはおいしい。

でも、おいしく味わえない、、、

 

 

――

 

風が吹く。

 

そして再び、引き寄せられる。

 

「あぁ、この感じは確か。。。」

 

 

あなたの声が、風の中から聞こえる。

 

「やっと、戻ってきたね」と。

 

その声の方を向く。

 

 

まぶしくて、何も見えないけど。

一つだけ、見えた。

 

それは、自分が探していたパズルのピースだ。

 

そうか。

 

ここは、あなたの手の中だ。

 

そして私は、あなたの—。

 

 

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Like a puzzle, which is always missing a piece.

 

Why is it?

There is always a question there.

 

Isn't it because you created us as someone who is significantly inferior to you?

Someone who can never reach out to your full understanding?

 

I think with my limited brain.

And fail to find an answer.

 

And you continue to tell me.

"Just believe. Just believe in me."

 

I cry out, and tell you.

"I have limitations. Limitations that you have set in me."

 

――

 

And darkness fell.

I cannot see anything.

 

"Everything... was a lie...."

 

I retreated, trying to get back.

But somehow, failing to fit in.

Something is missing.

 

 

Where am I?

What am I doing?

 

I feel fun. I feel pleasure.

But I feel no safe here.

 

Where am I?

Who am I?

 

I know what to do and what I want to do.

But I feel no motivation.

 

Where.

Am.

I.

 

This wine is tasty.

But I don't enjoy drinking it.

 

 

――

 

Wind starts blowing.

 

 

And I am drawn back again.

 

"Ah, I remember. It feels like..."

 

In wind, I hear a voice of yours.

 

"You finally came back."

 

I look toward the direction of your voice.

 

It's so bright that I cannot see anything.

 

-- anything but one thing.

 

 

A piece of the puzzle that I've been looking for.

 

 

"I see. "

 

This place was in your hand.

 

And I am your .

 

 

『二種類の神』 Two Gods

みなさんこんにちは。

コトワドです。

 

ここまで何本か、ブログ記事を書かせていただきましたが、

みなさんの発見になることや、参考になることはありましたでしょうか。

 

私の願いと祈りは、

「クリスチャン」と呼ばれる人たちが、実は皆さんにとって、そこまで遠い存在ではないこと、

私たちでも、迷ったり疑ったりすることはあるということ、

それを知り、神に対して少しは興味を持って、一人一人が真剣に神を追い求めるようになればということです。

 

目の前の仕事は大切。

週末のテストも大切。

新着のラインメッセージも大切。

 

しかし、「なぜ自分はここにいるのか」という問いに答えることこそが、

 

私たちにとって、最も重要な問いではないでしょうか。

 

別に、キリスト教ではなくても良いですが (できればキリスト教だと嬉しいですが)、

「真理」というものをそろそろ探してみませんか。

そこで、自分なりに考察したり、検証したりしてみてください。

 

ただし、世の中にはカルト宗教や、

お金目的の怪しげな宗教団体もいますから、そちらはお気をつけて。

 

 

 

なぜ真理を知る必要があるのでしょうか。

 

「天国に行ける」 というのは、最も大きなメリットとしてあると思います。

私は、多くの人が、救われて欲しいと願っています。

ただし、価値観を押し付けるつもりはありません。

 

もう一つは、ブログの後半で紹介しますね。

 

さて、 

 

もう、真理を知ることを先延ばしにするのはやめませんか。

 

「こんな自分も救ってくれない神なら、全能とは言えない」や、

「死は先のこと。とりあえず今が大切」といったことを言う方もいるかもですが、

 

それは、私には正直よくわからない弁明です。

 

怠惰な自分を正当化するための、言い訳ではありませんか?

 

 

 このブログのタイトルにもありますが、

世の中には、二種類の神がいます。

 人を創った神と、人が創った神です。

 

そして、人が創った神には、仏様や、ガネーシャ様、

そして、自分自身も含まれるでしょう。

 

自分自身が神になるとはどういうことか。

 

それは、大多数の日本人がそうだと思うのですが、

世界の中心が神ではなく、自分であると捉えてしまうことです。

 

何か物事を行う際の基準が、「こうすると自分が気持ちいいから」や、

「こうすると自分が嫌な気分になるから」となっている状態は、

自分自身が行動指針となっていますよね。

 

神からすると、作り主である自分を無視して、

各自がおのおの好きなように行動している状態は、

少し悲しいものだと推測します。

 

それはちょうど、

さいころに血潮をかけて育て上げたかわいい子どもが、

大人になると自分のことをすっかりと忘れて、

それぞれの享楽にふけっている状態を見て悲しむかのように。

 

 

これに関して、少し長くなりますが、

私の好きな聖書個所を引用させてください。

 

さて、あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。上にあるものに心を留め、地上のものに心を惹かれないようにしなさい。あなたがたは死んだのであって、あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているのです。...(中略)... だから、地上的なもの、すなわち、みだらな行い、不潔な行い、情欲、悪い欲望、および貪欲を捨て去りなさい。...(中略)... あなたがたも、以前このようなことの中にいたときには、それに従って歩んでいました。...(中略)... また、キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。...(中略)... そして、何を話すにせよ、行うにせよ、すべてを主イエスの名によって行い、イエスによって、父である神に感謝しなさい。   (コロサイの信徒への手紙 3章1-17節)

 

 

私は、コトワドという人間は、一度、死にました。

そして、死んだ際に、「自分自身」を基準とした考え方が、

なくなりました。

 

そして、イエスの十字架と共に、復活しました。

新たな、「神の基準」を、身に着けて。

 

 

神は、自分自身を捨てて、イエスの十字架とともに一度死に、

創り主である自分のところに戻ってくるのを待っていると、

クリスチャンは考えます。

前回のブログの内容と被りますね。

 

この「自分自身を捨てる」、そして、

「神の愛の支配に身をゆだねる」という側面が、

キリスト教にはあるからこそ、

 

もしあなたが信じたら、あなたの生活は、180度変わるのです。

 

あなたの価値観が逆転します。

 

 

よく、巷で聞く言葉で、私も昔はそう思っていた言葉があります。

 

「宗教を信じるのは、心の弱い人がやること」

 

本当にそうでしょうか。

信じる前と、信じた後では、行動が180度変わるんですよ。

 

コロサイの信徒の手紙の引用個所にあるように、一度信じたら、

・今まで好きだった、悪い情欲を捨てなければいけないかもしれない。

・聖書を読まなければならない。

・神からの目を常に気にしなければいけない。

 

信じることには、勇気が伴うと私は思います。

(盲目的に信じる場合は別としてです)

そしてそれは、強い行為であると思います。

 

だからこそ、多くの人が、今の快適な状態を抜けてまで、信じることに抵抗を覚えるのではないでしょうか。

自分が神である状態から、抜け出したくないと。

 

しかし、真理を知ること、信じることの二つ目のメリットとして、

次のことを紹介させてください。

 

それは、「真理はあなたを自由にする」

(The truth will set you free) ということです。

 

神を信じることは、必ずしも「縛られること」ではない、と思います。

詳しくはまた今度、こちらのテーマで書かせていただきますが、

世界の軸を、自分から神に移すことで、解放される側面があります。

 

私たちが普段生活する中で、

・就職活動で職を手に入れることのプレッシャーであったり、

・人間関係のトラブルであったり、

・病に苛まれて、余命三か月と言われたり、

いろんな問題があると思います。。。

 

神を信じる、とは、そもまま、自分が抱えている悩み、問題をすべて、

神に丸投げする、ということでもあります。

 

そして、コロサイの信徒の手紙の聖書個所にあるように、

キリストの平和が、自分を満たしてくれるようになります。

 

「この問題は、自分の問題ではないのだ」と。

 

どうか、みなさんが、勇気をもって、自分自身を創った神に、近づけますように。

そして神の愛と、愛からくる平和を感じることができますように。

 

キーボードをたたきつつ、私は祈ります。

 

『結局は、誰のせい?』 Who's Fault?

みなさん、こんにちは。

コトワドです。

 

テレビをつけると、いろんなニュースが流れていますね。

そして、ほとんどのニュースは、悪いニュースのことのように感じませんでしょうか。

もしかしたら、世の中はどんどん悪い方向に向かっているのではないか、と感じているのではないでしょうか。

 

世の中には、確かに、「悪」は存在します。

 

私が説明するまでもないと思います。

 

それでは、その悪は、どこから来ているのか。

 

人間から?それとも、環境によって生まれるのか?

まさか、神が…??

 

それでは、お話していきましょう。

 

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『死がもたらす新しい生』New life that death brings

人がそれまで持っていた考え方を捨てて、

新しい生き方を選択しようとする際に影響を与えるものには、

どんなものがあるでしょうか。

 

 

例えば、ある一冊の本との出会いや、一人の人との出会いは、

自分の人生に大きな影響を与える要因としてあるかもしれません。

 

私には、自分の人生に影響を与えた二人の人がいました。

 

一人は、高校時代の同級生です。

高校卒業後、一切合うことは無かったですが、facebookを通して、大学に進学して、企業インターンなども積極的に行い、非常に充実した毎日を送っていることはよく知っていました。

かたや当時、私は一年間の浪人時代を得て、そこそこのコンプレックスを抱えていた大学2年生。人生における目標なども特になく、充実した日々を送っているわけでもなかったです。

 

さえない自分と、充実した日々を送って周りからも応援してもらっている彼…

自分と彼とを比較しては、落ち込むような日々を送っていました。

 

そして、自分の中に妙な焦りのようなものがありました。

彼のようになりたい、自分ももっと高みに行きたい、そう願っていました。

 

自己啓発書や、ビジネス書をたくさん読んでいた「上昇志向」で、「意識高い系」の自分はきっと、自分にも、周りの人にも優しくなかったと思います。Facebookで、一方通行的に彼の行動を観察し、自分の満ち足りていない人生に焦りを覚え、自分は変わらなきゃ、前に進まなきゃと焦る日々は、続きました。

 

 

自分の人生に影響を与えた、もう一人の人に出会うまで。

 

その人の名前は、「イエス」と言いました。

 

 

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みなさんこんにちは、コトワドです。

寒い日が続いておりますが、皆さんはお元気でしょうか。

 

今回のブログは、前回の記事とも重なる部分が少しあるのですが、

エスとは誰か、について、少し深堀していきたいと思います。

 

さて、冒頭では、私が高校時代の同級生に対して抱いていた、一方通行的な関係を紹介させていただきました。

今度は、あなたに関係するお話をしたいと思います。

 

 

私は、あなたのために、死んだ人を知っています。

 

それも、苦しみながら、人々から蔑まれながら。

その人は、何も悪いことをしていないのに、です。

 

不思議ですよね。

 

自分が過去に何かダメなことをして、見返りとして自分が苦しむならともかく、

その人は、あなたのために、あなたの知らないところで、あなたの生まれる前に、死んだのです。

 

その不思議な人の名前が、イエスです。 

前回のブログでは、交通事故の例え話で紹介させていただきましたね。

エスは、あなたがまだ赤ん坊のときに、車から轢かれそうなあなたを救うために、身代わりの死を経験しました。

 

 そもそも、「なぜイエスが死ぬ必要があったのか」については、次のブログで書かせていただきまして、ここでは、読者の皆さんには、「イエスと言われる人が、あなたのために死んだ」という出来事を、少し吟味していただきたいです。

  

 

実感が少しわきにくいかもしれませんが、もし本当だったとしたら、

それって、すごいことだと思いませんか。

 

 

クリスチャンは、それが本当に起きたと信じています。

エスが本当に、自分たちのために死んでくれたのだと。

 

2,000年も前の出来事をどうして信じることができるのか。

 

人によって、答えは違うと思いますが、私個人の意見を、客観的な立場と、主観的な立場からお伝えさせていただきます。

 

客観的な立場として、何よりもまず、「聖書に書かれているから」とお答えしたいところですが、

そうすると、「どうして聖書を信じることができるのか」と、皆さんはおそらくお思いになりますよね。笑

 

ですので、別の理由として、聖書の記述は、科学者たちが発見したデータに基づいているから、とお答えします。

 

聖書は、神の書であると同時に、人類の歴史書でもあります。ですから、聖書には、多くの出来事が書かれています。イエスという人がいたということ、洪水が起こったということ、〇〇という人が□□ということをしたということ、などなど。

 

例えば、イエスが実在したという事実は、聖書以外の文献からも確証されており、そのことは、クリスチャン、非クリスチャンの研究者を問わず、 否定することは難しいでしょう。

 

「聖書 科学 矛盾」などと、好きなキーワードでインターネットで検索してみてください。

「聖書 信頼性」などのキーワードでも良いかもしれません。

 

次に、主観的な理由になります。

 

私は、「もしイエスが愛の神でなければ、誰が愛の神なのか」と、自分に問います。

 

・イエスは、当時、病の人々を、奇跡で癒しました。哀れみや、慰めの感情をもって。

マザーテレサのように、人々のことを愛し尽くしました。イエスは何よりも、優しかったのです。

・イエス自身は、何も悪いことをしなかったのに、この世のすべての罪を背負い、十字架にかかろうとしました。私やあなたのことを救うために。

・罪びとである私たちは、「イエスよ、私はあなたのことを知らない。罪なんか何もない」と言います。罪のないイエスは言います。「私はあなたのことを知っている。愛している。あなたの罪は私が背負おう。」

 

ここに、はっきりと、私たちと、イエスとの差が表れているのではないでしょうか。

罪がないと、言い逃れする罪人の私たちと、罪がないのに、進んで処刑されにいく神の子の姿と。

 

そして、イエスは、磔にされた十字架の上で、このように言いました。

「父よ。彼らをお赦しください。自分が何をしているか知らないのです」(ルカ23章34節)

 

エスが、磔にされ、血まみれになり、嘲笑いされ、意識がもうろうとしている中で祈ったのは、「今まさに自分を殺そうとしている人たちを許してください。彼らは何も、知らないのだから。」という祈りだったのです。

 

…衝撃でした。

 

殺されているときに、このような祈りをあげることは、人間には可能でしょうか。

 

 目には目をで、自分を傷つける人には仕返しを願うのが、普通ではないでしょうか。 

 

 

みなさんはどうでしょうか。

 

私は、この人が神でなくて、誰が神だろう…と、

この人こそ、神の人格を所有するに足る方なのでは、と思い始めました。

 

 

私は、基本的には懐疑主義者です。

何かを信じる際に、客観的な事実がなければ、それを信じることはできません。

(盲目的に何かを信じる、ということは、何よりも危険なことだと思います。)

 

しかし、イエスが本当に神かどうか、というのに関係なくとも、イエスが見せた、人々への愛や、哀れみの姿勢は、否定することはできませんでした。

 

 

 

私が経験したことのない、

誰かに示したこともない、

存在しうることすら知らなかった愛。

 

神の愛を知り、衝撃を受け、私の生き方は変わりました。

 

 

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みなさんが道を歩いていて、強盗につかまり、何かを盗まれそうになった際に誰かが助けてくれたら、ありがとうと、その人にお伝えしますよね。

 

もし、自分が強盗につかまる前に、あなたは助けられていたとしたらでしょう。

あなたにはあまり、助けられたという実感がわいていません。

それでもあなたはその見知らぬ人に、ありがとうと、お伝えしますか。

 

 

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さて、今回は、二つの一方通行的な関係を紹介させていただきました。

 

羨み、自分もそのようでありたいと目指した同級生の彼と、

それまで、存在しうることさえ知らなかった愛を私に抱いてくれたイエス

 

私は、今でも、どちらの存在も尊敬しています。

しかし、彼とイエスとでは、尊敬の種類が少し、違うのです。

 

みなさんは、イエスの愛に対して、どう思いますか。

 

この人こそ神だ!と思いますか。

それとも、イエスはただのいかれた偽善者だと、思いますか。

 

それとも、この質問に答えたくないがために、

エスが存在したという前提を疑い、質問をかわしますか。

 

それとも、将来、時間ができたときにこの質問についてじっくり考える、

とお答えしますか。

 

 

次回は、そもそもなぜ、イエスが私たちを救うために死ななければならなかったのかについて、書いていきますね。

 

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